菅政権はなぜ国民の行動に口先だけ介入するのか コロナ第3波の中、本音は財政責任回避

By 尾中 香尚里

首相官邸で記者団の取材に応じる菅首相。「Go To トラベル」の全国一時停止を宣言した当日の大人数会食について反省を表明した=2020年12月16日

 新型コロナウイルスの感染が急拡大する中、菅義偉首相の「会食」をめぐる波紋が収まらない。首相は「GoToトラベル」全国一時停止を発表した14日夜、東京・銀座で8人による「ステーキ会食」に臨み、政府の分科会が「感染リスクが高まる」と注意を促した「5人以上の飲食」を自らやってのけた。批判を受けて16日、珍しく「反省」を口にしたが、その足で今度は2件の「はしご会食」に向かった。西村康稔経済再生担当相は「5人以上(の飲食)が一律にだめという訳ではない」と、分科会の呼び掛けをあっさり無効化してしまった。

 「国民に会食への注意を求めておきながら、自分だけは特別扱いか」「結局『5人以上の飲食』が良いのか悪いのか分からない。首相は国民に何をさせたいのか」。すでにある多くの批判はどれもその通りだが、もう一つ別の視点を付け加えてみたい。菅首相は本音では、「5人以上の飲食禁止」が感染拡大防止には役に立たないと考えているにもかかわらず、そんな窮屈な行動制限を一方的に国民だけに押し付けたのではないか、ということだ。(ジャーナリスト=尾中香尚里)

新型コロナウイルス感染症対策本部終了後、記者団の取材に応じる菅首相。この後、首相は会食をはしごした=12月14日夜、首相官邸

 ▽感染の不安、感じていない菅首相

 最初にお断りしておきたい。筆者は今回「5人以上の飲食」が実際に感染拡大に影響を及ぼすかどうかについては、あえて言及しない。あくまで、現在の菅首相の目線に立って考えてみたい。その前提で以下を読み進めてほしい。

 17日夜の会食はついにキャンセルしたようだが、菅首相はそれまで、平時と同様に連夜の会食に臨んできた。なぜなのか。もちろん、個々の会食にはそれぞれの目的があるわけだが、共通して言えるのは「首相自身が感染の不安を全く感じていない」ということだろう。

 首相は70歳を超えている。14日のステーキ会食の参加者もいずれも高齢で、感染すれば重症化のリスクが高い人たちだ。もしも首相が「自分が感染すること」や「会食が政治的に批判を受けたりクラスターが発生したりして、政権への打撃となる」といったリスクを感じていれば、国民の批判を待たずとも予定をキャンセルしたはずである。

 首相はそれをしていない。つまり「会食で感染することはない」「政治的な悪影響も生じない」と自信を持っていたわけだ。

 菅首相のこの判断が正しいかどうかについては、前述したように今回は問わない。あくまで首相の判断が「正しい」と仮定して、先に続けたい。

政府の新型コロナウイルス感染症対策分科会の会合後に記者会見して、拡大地域への外出自粛要請をする尾身茂会長=12月11日午後、東京都千代田区

 ▽「やってる感」演出が狙い?

 菅首相は、分科会が注意を促した「5人以上の飲食」を行っても、感染拡大の恐れは少ないと考えている。だったら、国民が菅首相と同じように5人以上の飲食を行ったとしても、感染拡大の恐れは少ないと考えていなければおかしい。

 「会食しても感染拡大の恐れが少ない」とは、裏を返せば「会食を自粛したとしても感染拡大防止の効果は小さい」ということだ。つまり首相は、自分自身「5人以上の会食を禁じても、感染拡大の防止には大して役に立たない」と考えている。なのに、そんな面倒な行動変容を、国民の側にだけ押しつけようとしたわけだ。おそらく、国民に何かを求めることによって、政府が「やってる感」を演出するために。

 こういう粗雑な政治権力の使い方が、筆者はとても腹立たしい。

 感染症の拡大のような緊急時に、政府は国民の生命と暮らしを守るため、その私権に必要最小限の制限を行う必要が生じるということは、筆者も理解する。実際、新型コロナウイルス感染症への対策について、政府は法律(新型インフルエンザ等対策特別措置法)に基づく緊急事態宣言を発令し、一定の私権制限を行うことが認められている。

 そういう制限は「国民の生命と暮らしを守る」という目的のもと、効果が極めて高いことに絞って、慎重に行うべきことのはずだ。法的根拠も持たずに、安易に幅広く国民の行動に制限をかけるようなことは、たとえ緊急時であっても政府には認められていない。

 ところが、コロナ禍では菅政権も前任の安倍政権も、こうした国民の行動への制限を、極めて雑に行ってきた。外出自粛やお店の営業自粛、時短営業など、働く人々の死活に直結する問題にまで、次々と口先で介入してきた。

 ▽口先介入は国民への責任回避

 この間、地方自治体も含めて「○○アラート」「△△特別警報」などといったさまざまな言葉が乱れ飛び、そのたびに国民は、意味があるのかないのか分からない行動変容を次々と求められ、振り回されてきた。安直で雑な行動変容を求めてきた政権の姿勢が、自治体にも広がってしまったということだろう。

 そして政権側は、国民には「口先介入」でさまざまな行動変容を求めたり、時に罰則の制定をちらつかせたりする一方で、自らは「法律の枠」に縛られて国民への責任を負わされることを回避してきた。菅政権が緊急事態宣言の発令に慎重なのは、「国民の私権制限を避けたい」という人権意識のためなどではない。宣言発令によって国民への補償、すなわち政府が財政的な責任を負うのを避けたいからである。

 例えば、西村担当相は18日の記者会見で「何としても緊急事態宣言を出すような状況を避けるために、事業者や国民の協力をお願いしたい」と述べた。西村氏が緊急事態宣言を「政府による国民の統制」ととらえ、その上で「そんな思いはしたくないだろう。だったら今のうちに政府の言うことに従え」と考えていることが透けて見える。

 だが、緊急事態宣言を出す意味とは、本来そんなものではない。政府が国民に対して多少の強権を発動することになろうとも「皆さんの生命と暮らしを守るために、できる限りのことを全てやる」と国民に誓う、ということだ。

 国民に何かを求める前に、まず「政治がやるべきこと」が存在すべきなのだ。

 根拠法が異なるが、例えば東京電力福島第1原発事故(2011年)で、当時の菅直人政権は原発周辺の多くの住民に住み慣れた家を離れて避難することを強いた。大きな私権制限だったが、原発がいきなり爆発する恐れもあった中で住民の生命を守るための、批判覚悟の政治決断だった。まず政治が国民を守るためにやるべき具体的な施策を立てて、その遂行のため、国民に政府に従ってもらう、という順序があるわけだ。

 これをコロナ禍に当てはめれば、安倍政権や菅政権が国民に私権制限を強いてでも行うべきだったことは、例えば秋冬に備えた医療体制を整備するという具体的な施策を立て、その遂行のために民間の建物などを強制使用させる(もちろん補償をしっかり行うことが前提である)ことだ。

 特措法に基づく緊急事態宣言とは、そのように使うもののはずだ。

「Go To トラベル」の全国一時停止を宣言した当日の大人数会食について反省を表明した=16日午後

 ▽いいかげんな要求見透かした国民

 安倍政権も菅政権も、国民を守るために「強権」を有効に使うことをせず、一方で政治の責任が問われないところで、口先だけで国民に何かを求めることをやってきた。

 対策に実効性があったかどうか政府の責任が問われることがないから、国民に求める内容も効果のあるなしを十分に精査していない、いいかげんなものになる。だから菅首相は、例えば「静かなマスク会食」などといった「おそらく自分でも効果があるとは考えていない」行動変容を、平気で国民に求めることができてしまう。

 それを国民に見透かされてしまうから、結局菅政権は、国民の行動変容を十分に促すことができない。その結果が現在の第3波の広がりである。

 菅政権はこの状況にいら立っているのだろう。特措法改正で行動変容に従わない国民への罰則規定を盛り込む検討に入ったようだ。そもそも自分たちの権力行使のありようがこんな事態を招いたということに、おそらく何の痛痒(つうよう)も感じていないのではないか。

 「ステーキ会食」はその分かりやすさから、国民の大きな批判の的となった。だが、少し視点をずらしてこの問題を振り返ると、菅政権の粗雑な権力行使のありようを、改めて思い知らされる。笑って終われる話ではない。

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