「彼に描けないものはない」天才アニメーター、幻の絵コンテに込めた思い

木上さんが描いた「笠地蔵」の絵コンテ。丸みを帯びた、優しく素朴な筆致だった

アニメの世界で「彼に描けないものはない」とまで評されたクリエーターがいた。京都アニメーション放火殺人事件で犠牲になった木上益治(きがみよしじ)さん=当時(61)。彼には、世に生み出そうと情熱を傾けながら、思いを果たせなかった作品がある。京アニ初のオリジナルアニメとすべく、2000年前後に製作された「笠(かさ)地蔵」だ。京都新聞社は1年に及ぶ取材の過程で、その設計図ともいえる絵コンテの複製を見つけた。京アニの礎を築いた逸材は、幻のアニメにどんな願いを託そうとしたのか。

若い夫婦に訪れる奇跡の物語だった。男が風雪にさらされる地蔵をふびんに思い、妻に繕ってもらった笠とみのをかぶせてやった。その日、妻が病に倒れた。嘆き悲しんでいると、子供に姿を変えた地蔵が目の前に現れ、命を救ってくれた。男は涙をぽろぽろと流して喜んだ-。

木上さんが民話に独自の脚色を加えて描いた678カット分の絵コンテは、素朴な筆致で、丸みを帯びたキャラクターには優しさがにじむ。「けいおん!」や「響け!ユーフォニアム」など、はつらつとした若者の青春群像を描くことの多い京アニ作品とは、趣が大きく異なる。

1981年に創業した京アニの歴史は、セル画に着色する仕上げ工程の下請けから始まった。東京一極集中のアニメ業界にありながら、地方を拠点に国内随一のスタジオにまで駆け上がった希有(けう)な存在だ。そのシンデレラストーリーは、飛び抜けた才能を持つだけでなく、後進を育てる教育者の顔を兼ね備えた木上さんの存在なしには語れない。

木上さんは目立つことを好まず、時に本名とは異なる別名義を使いながら、後輩が監督を務める作品を一スタッフの立場から支援した。京アニが元請け会社としての地歩を築いた2003年以降、監督を務めたのはオリジナル作品「MUNTO」と「バジャのスタジオ」の2シリーズ。この間、専門誌のインタビューを受けることはめったになく、製作に心血を注いだアニメーターの胸の内を知るのは容易なことではない。

木上さんの思いに近づく手掛かりは、東京都西東京市にあるアニメ製作会社「エクラアニマル」にあった。

木上益治さんは1990年代初頭に京アニに加入するまで、東京都西東京市のアニメ製作会社「エクラアニマル社」の前身「あにまる屋」に在籍した。木上さんの作画力はすでに業界トップクラスで、「火垂(ほた)るの墓」や「AKIRA」など数々の名作の製作陣に名を連ね、華々しい活躍を見せていた。

あにまる屋は1989年、初代社長が病死した際に遺族から寄付を受けた保険金で絵本「小さなジャムとゴブリンのオップ」を出版した。シナリオや作画など作業全般を担当したのが木上さんだった。魔法使い見習いのジャムが、願い事をかなえる大切なパンを空腹の友達に差し出すと、奇跡が起きてジャムの夢がかなう筋書き。人を思いやる心の素晴らしさを絵と物語で分かりやすく表現する試みは、笠地蔵と重なる。

絵本のあとがきにはこう記されていた。「私達はアニメーションを制作している者です。日頃の目標として子供達(たち)の夢を拡(ひろ)げるような作品づくりを心がけております」(原文のまま)。

出版から12年が過ぎた2001年冬、京都新聞社の記者が宇治市木幡の京アニのスタジオを訪ねている。当時は笠地蔵の製作の真っただ中。「物があふれる現代、何が本当に豊かなのかを伝えたい」。記者の問いかけに照れくさそうな面持ちで答えたのは、「三好一郎」と名乗る男性監督。活躍の場を京都に移した後も強い信念を持ち続ける、木上さんその人だった。

2019年7月18日に発生した京都アニメーション放火殺人事件。理不尽に命を奪われたのは、アニメの力をまっすぐに信じ、世界中のファンに夢と希望を届けた人たち。連載「エンドロールの輝き」は、クリエーターとして生きた36人の足跡を丹念にたどることを目標にしました。それは、人数の多寡を表す「36」の数字からはうかがい知ることのできない、特別な物語です。(岸本鉄平、本田貴信)

「彼に描けないものはない」と言われた木上益治さん。「笠地蔵」を製作していた1998年に撮影された

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