【ID野球の原点】「おいムース、サイン変えただろ」南海ID野球の幕開けた一言

現役時代の野村克也氏。ブレイザーの「シンキング・ベースボール」に共鳴し、野村ID野球の基礎が生まれた

【ID野球の原点・シンキングベースボールの内幕(2)】野村克也氏の代名詞とも言えるのが、データを重視した「ID野球」。その原点となったのは南海時代にドン・ブレイザー氏が日本に持ち込んだ「シンキングベースボール」だった。「ブレイザーの陰に市原あり」と呼ばれた側近の市原實氏が、2007年に本紙で明かした内幕を再録――。(全16回、1日2話更新)

「おいムース(野村の愛称)これはどういうことなんだ?」。試合中に二塁を守るブレイザーが捕手の野村の元へ飛んでいった。「今、球種のサインを変えただろう。勝手に変えられるとこっちは困るんだ!」。いきなり詰め寄られた野村は「何を言いだすんや?」と不思議に思ったそうだ。

この試合、相手ベンチや相手選手の動きから「サインを盗まれている」と感じた野村は、試合中にバッテリー間のサインを変更していた。ちなみに当時の球種のサインは指の本数で決められており「指1本が直球、2本がカーブ、3本がシュート、4本がスライダー、5本が特殊球」という具合。特殊球というのはフォークなどの落ちる球のことで、試合前のミーティングなどで事前に「今日は3番目に出した指の本数が正しいサイン」などと決められていた。

だから野村が「4本、1本、3本、5本」の順でサインを出したら、投手は3番目に出したシュート(3本)を投げればいい。その「何番目」という順番を試合中に変更したことが、ブレイザーは気に入らなかったのだ。

もっとも「変えてはいけない」という意味ではない。ブレイザーは「野手は球種によって結果を予測し、先を読んだプレーをしている。打球への対応も変わるし、フォーメーションも変わる。これからはサインの変更があった場合は野手にもしっかり教えてくれ」とそれがいかに大切なことであるかを野村に訴えた。

これには南海の司令塔・野村もハッとさせられた。今でこそ野手は1球ごと球種に応じたポジショニングを求められているが、当時はそんな習慣はなく、野村もそんなことを言われたのは初めてだった。それだけに「これからの野球は頭を使っていく野球になる」と直感した野村は、連日のようにブレイザーと話し込むようになっていった。

チームとしての守備位置は、相手打者の打球傾向のデータによってあらかじめ試合前から方針が決められていた。だが、事前に球種を知ることができれば、さらに打球の方向が絞り込めることになる。ただ、ブレイザーが慎重だったのは「野手がヘタな動きをすると、相手の打者に球種を読まれてしまう危険性がある」というリスクにも気を配った点。今の時代でもセンター、二遊間の動きで球種を読まれ、手痛い一打を食らっているチームがある。そのあたりは考え直した方がいいだろう。

そうしてブレイザーはチームのフォーメーションを次々と変えていった。彼の口グセは「野球とは耳と耳の間でするスポーツ」。南海の脳内革命が始まった。=敬称略=

☆いちはら みのる 1947年生まれ。千葉県出身。県立千葉東高―早稲田大学教育学部。早大では野球部に入部せず、千葉東高の監督をしながらプロの入団テストを受験し、69年南海入り。70年オフに戦力外通告を受け71年に通訳に転身する。79年に阪神の監督に就任したブレイザー氏に請われ阪神の守備走塁伝達コーチに就任。81年にブレイザー氏とともに南海に復帰すると、89年からは中西太氏の要請を受けて近鉄の渉外担当に。ローズ、トレーバーらの優良助っ人を発掘した。ローズが巨人に移籍した04年に編成部調査担当として巨人入団。05年退団。

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