一家離散の長与千種「グレなかったけど、今でいう引きこもりに…」

中学の体育の授業で。先生に何か文句を言う長与(右)。スラリとした美少女だった(本人提供)

【長与千種・レジェンドの告白(2)】10歳の時、一家は離散した。姉はもう働いていたので、2歳の弟と私は、それぞれ別の大村市内の親戚の家に預けられ、父と母は関西へ働きに出かけた。家族はバラバラになり、人生が一変した。

この時期の記憶は、これから先へ進む以上、二度とは開けてはいけない扉でもある。人生の中でも一番デリートしたい時期だ。本当ならもう絶対に二度と話したくない。それほどつらい時期だった。

その時のトラウマが残っているのか、私は今でも人見知りする。人と深く付き合うのがとても怖い。食事の席でも相手の顔色をうかがってしまうから、遠慮して自分から食べることができない。その後に自分でお店(千葉・船橋市内でカラオケスナック「リングサイド」経営)をやるようになっても、そのクセはまだ完全には治らなかった。

親戚とはいえ他人の家庭だ。やっぱり親兄弟のように、心を開いて話せない。最初に預けられた家から、人の顔色をうかがうようになった。父と母は毎月7~8万は仕送りしてくれていたけど、小5の時期なんて、例えば鶏のから揚げなんていくら食べても足りない。それでも4個か5個食べた時点で、親戚から「あんたは食い過ぎる。送ってもらうお金じゃ足りない」って言われたら、もう言葉も出ない。涙すら出なかった。とても切なかった。自分がみじめだった。

最終的には4年間で5軒、親戚の家を転々とした。「私は何で生まれてきたんだろう?」っていう自問自答は果てしなく続いた。「家」はあっても帰る場所なんてなかった。中学校に入ると1年も終わる頃になると勉強もしなくなる。坂を転げるように成績は落ちていった。

それでも目立っていたのだろうか、中学には私の存在を全否定する数学の先生がいた。50点程度の私だけを皆の前で立たせて「何だこの点数は?」と棒で殴る。こづくとかじゃない。血がにじむぐらいに殴る。今なら大問題になるはずだ。それで数学が嫌いになった。今でもその先生に会って問いただしたい。「なんであんなことしたんですか?」って。それほど傷ついた。

この時期に数学の抜き打ちテストがあって、私は初めて名前だけ書いて出した。本当に何も分からなくなっていたのだ。その先生は鼻先でせせら笑う。私はさらに学校が嫌いになり、今でいう引きこもりになる。最悪だった。

それでもグレなかったのは、小4の時から始めていた空手のおかげだった。空手の稽古だけは休まなかった。小児ぜんそくを患った私を気遣ってくれた母が、大村にあった航空自衛隊の道場に通わせてくれたのがスタートだった。週3回3時間、上は高校生から下は幼稚園児まで40~50人ぐらいが一緒に練習する。自衛隊という環境もあって礼儀には厳しいし、練習内容もキツかったけど、楽しかった。一家が離れ離れになった後、私の存在を初めて認めてくれた場所だった。

白帯から始まって黄色、緑色、茶色と進級していく。結果が認められるのが楽しくて楽しくて仕方がなかった。最終的には初段まで進み、博多まで行って全自衛隊の九州大会に出るようになっていた。

そうこうするうち、父が出稼ぎ先から突然、大村に戻ってくる。学校に行かない私に手を焼いた親戚が「もう面倒を見切れない」と父に連絡したのだ。

(構成・平塚雅人)

☆ながよ・ちぐさ=本名同じ。1964年12月8日、長崎・大村市出身。80年8月8日、全日本女子田園コロシアム大会の大森ゆかり戦でデビュー。83年からライオネス飛鳥とのクラッシュギャルズで空前の女子プロブームを起こす。89年5月引退。93年に復帰し94年にガイア・ジャパン旗揚げ。2005年に解散して再引退。数試合を経て14年に再復帰しマーベラス旗揚げ。15年に大仁田厚と東京スポーツ新聞社制定「プロレス大賞」最優秀タッグ賞受賞。20年に北斗晶らと女子プロ新組織「アッセンブル」を旗揚げ。

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