川崎の半鐘、75年経て静岡から里帰り 戦時中の金属供出、「もう二度と」

本堂に置かれた半鐘の横でお経を唱える坂本住職

 第2次世界大戦中、戦況の激化を受けた政府の「金属類回収令」に応じて川崎市川崎区の光明山遍照寺が供出した半鐘が今月8日、戦後75年の年月を経て寺に里帰りした。昨夏に静岡県内で発見され、消えていた表面の文字を市教育委員会が解読、同寺の半鐘と特定した。「戦争で本尊1体を残し、すべて焼けた。一つでも戻りうれしい」。坂本圭司住職(60)は、檀家(だんか)と共に平和への思いを新たにした。

 半鐘は高さ64センチ、最大径37センチ、重さ約30キロで、銅にスズや亜鉛を加えて鋳造されている。江戸・神田の小沼播磨守(こぬまはりまのかみ)が製作し、309年前の正徳元(1711)年12月、檀家らが同寺に寄進した。

 表面に刻まれた銘文には「武州橘樹郡河崎領」(現在の川崎市)との文字が確認できるが、寺の名などはやすりのようなもので消されている。「供出に抵抗感があった寺や檀家が消したと予想できる」と市教委の担当者。裏側の表面には薬品で「30kg」と書かれ、上部には穴も開き、供出後は「ただの金属」として扱われたことが推察できる。

 発見は昨夏にさかのぼる。静岡県富士市の鉄工所が廃業に伴い所有物を整理していたところ、先代が収集していた数個の供出半鐘を見つけた。厚木市の地名が刻まれたものがあったことから同市の担当者が調査し、川崎の名が残る半鐘を見つけたという。

 厚木市から連絡を受けた川崎市教委は半鐘を市内に運び、解読を進めた。光量や陰影などを変えながら断片的に残る銘文のデジタル撮影を重ね、「光明山遍照寺」との文字を特定。市教委の服部隆博文化財課長は「分かった瞬間は『やった』と思った」とほほえむ。

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