長与千種「月収10万円」に釣られ進路決定「プロレスラーになる!」

レスラーを目指すと体はどんどん大きくなった。文化祭で学ランを着ておどける長与(右)当然、女子にもモテた

【長与千種・レジェンドの告白(4)】お医者さんになりたいという夢はあった。でもそれはとてもお金が必要だという現実も、もう分かる年齢になっていた。有名高校から空手で推薦入学の話もあったが、妥協で進学したってずるずると日々を過ごすだけだろう。何より、これ以上父母にお金の面倒はかけられない。私は働くしかなかった。

そんな時、月刊「平凡」で「女子プロレスラー募集。月収10万円」(注・その後事実ではないと身を持って知る)という広告を見た。10万円なんてお金、見たこともない。女子プロレスってそんなにすごい額が稼げるのか。小4の時、長崎市体育館で観たビューティ・ペアを思い出した。パンタロンをはいたきらびやかな世界だった。確かに小学生の頃はあこがれのまなざしで眺めていた時期もある。

華やかな世界にいてお金が稼げるのならば、プロレスラーになるしかない。今思えばかなり唐突な話だが、そう心に決めた。進学の三者面談で父が一時帰ってきた時も「プロレスラーになる」と告げた。父からは「だったらボートレーサーにならないか?」って言われたけれど、心は決まっていた。今、思い起こせば幼い頃から目の前で船のエンジン音を聞かせられたりしたので、父はレーサーになってほしかったのかもしれない。

私の中学(大村市立玖島中学)で就職の道を選んだのは、私が初めてだったと聞く。それでも担任の女性の先生は、校長に「15歳の女の子が自立して何かをやろうとしているんです。お願いします」とかけ合って後押ししてくれた。本当の恩師だ。今でも深く深く感謝している。

プロレスラーになると決めたからには体を作るしかない。ソフトと空手は続けていたからあとは食べて体を大きくするしかない。お弁当のほかにも、購買部で残ったパンを取っておいてもらったりして、必死に体重を増やした。身長が160センチを超えたころ体重も70キロになっていた。

だけど田舎に住んでいると、情報が伝わるのがとても遅い。間が悪いことに、その年(翌1980年入門)のオーディションはもう終了してしまっていた。それでも空手の関係者を通じて、熊本のプロモーターに履歴書を送ると、意外なほどカンタンに「OK」が出た。女子プロレスはビューティ・ペアが引退して下火になっていたので、人数が欲しかったのだろうか。別枠で入門テストを受けることができて、私は「自宅待機」となった。

皆はもう受験の時期だ。私はお小遣いをためてクラスの人数分、40人分の鉛筆を買って皆に贈り、大村市内の神社で合格祈願のお参りを続けた。プロレスラーになるという途方もない夢を後押ししてくれた担当の先生やクラスの皆に対する、せめてもの恩返しのつもりだった。

やがて合格の通知が来た。私は1980年4月10日、上京する。長崎空港には40人以上の友人が見送りにきてくれて、ちょっとした騒ぎになった。東京での生活なんて想像もつかない。どんな華やかな世界なのだろうか。

しかし私を待っていたのは、目黒区の全日本女子プロレス道場の屋上に、焼け跡に建ったようなトタン屋根のバラックの合宿所だった。

(構成・平塚雅人)

☆ながよ・ちぐさ=本名同じ。1964年12月8日、長崎・大村市出身。80年8月8日、全日本女子田園コロシアム大会の大森ゆかり戦でデビュー。83年からライオネス飛鳥とのクラッシュギャルズで空前の女子プロブームを起こす。89年5月引退。93年に復帰し94年にガイア・ジャパン旗揚げ。2005年に解散して再引退。数試合を経て14年に再復帰しマーベラス旗揚げ。15年に大仁田厚と東京スポーツ新聞社制定「プロレス大賞」最優秀タッグ賞受賞。20年に北斗晶らと女子プロ新組織「アッセンブル」を旗揚げ。

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