23歳で他界した親友へ…中日・京田陽太が綴った手紙 新たなグラブと交わした約束

青森山田高時代の後輩だった中井諒さんの祭壇を見上げる中日・京田陽太【写真:中井諒さんの母・啓子さん提供】

青森山田高時代の後輩で遊撃のライバル…中井諒さんが今年4月に他界

車を走らせ、名古屋から西へと向かう。2020年シーズンを終えてしばらく経ったころ。中日の京田陽太内野手はハンドルを握りながら、この1年に思いを巡らせていた。カーナビが示す行き先は、大阪府岸和田市。車内のトランクには、グラブとバットを丁寧に積んでいた。

「諒、京田君が来てくれたで」

その声に促されるように、到着したマンションの一室に腰を下ろした。木の板で高く組まれた祭壇を見上げる。並べられた数々の写真はどれも、友の笑顔やプレーする姿が切り取られていた。1枚ずつゆっくりと眺め、ようやく口を開く。「お線香、上げさせてもらってもいいですか?」。手を合わせ、そっと目を閉じた。

4月。訃報は突然だった。青森山田高時代に2学年下だった中井諒さんが、23歳の若さで他界。可愛げのある生意気さがなんとも心地よく、同じ遊撃手として高め合う仲でもあった。京田は一足先にプロの世界へ。社会人のNTT西日本に進んだ後輩を待っていたが、もう叶うこともない。行き先を失った友の夢。せめて受け取ることが、自らの役目だと思った。

中井さんが今季使用するはずだったグラブを譲り受け、全120試合を戦った。手元に届いたのが開幕戦の前夜でも、不思議と怖さはなかった。これまで愛用してきた同じ久保田スラッガー製というのも心強く、強い縁を感じた。

プレーの合間、無意識のうちに左手に目を落としている。そんな瞬間は、一度や二度じゃなかった。「諒が捕ってくれた打球もあります。スッとグラブに入ってくれるんです」。助けてもらったからこそ、ひとつの形として報いたかった。

「やっぱり、今年はゴールデングラブ賞を獲りたかったですね。諒と一緒に。でも、僕が13個もエラーしちゃったんで、仕方ないですよね」

グラブを祭壇に供え、持ち主に返す。中井さんの誕生日だった7月4日にフェンス直撃の二塁打を放ったバットと、試合で着用したユニホームも添えた。ここで思いを口に出せば、堪え切れないかもしれない。だから、近くにあったメッセージ帳にペンを走らせた。

中井さんの母に送った1枚の写真 来季使用のグラブに「諒」の刺繍

諒へ
一年間グラブ使わせてくれてありがとう。
本当にたくさん助けてもらったわ。
いつも一緒にショート守ってたけど、諒ちゃんと守ってたか?
エラー13個したから多分ずっと笑ってたやろ?
来年もまた家に行くからいい報告出来るように頑張るわ!
また一緒にショート守ろうな。
京田陽太

メッセージ帳を受け取った中井さんの両親が、穏やかな表情で祭壇に語りかける。「よかったなぁ、諒」。たとえわずかな時間でも、思い出を共有できたことがうれしかった。頻繁に連絡をくれる息子のような存在は「これからも、諒と一緒に戦います」と言ってくれる。遺族としては感謝の思いともに、少し複雑な感情もよぎる。

「京田君にそこまで背負わせていいのか。私たちとしては、諒のグラブで戦ってくれただけで十分なんです」

かけがえのない息子を失い、8か月が過ぎた。いくら時間がたっても、悲しみは消えてくれない。だが、気づいたこともある。中井さんの母・啓子さんは言う。「沢山の人の諒に対する気持ちの強さが、私の何ともいえない淋しさをぼかしてくれています」。誰かの背中を押していることも知った。「亡くなってからでも、人の役に立っていたのかなと思うと、我が子ながら天晴れです」。誇らしさを噛みしめ、懸命に現実を受け入れている。

年の瀬。啓子さんのスマホに、1枚の写真が届いた。写っていたのは、新品のグラブ。手のひらが当たる部分に「諒」の刺繍が施されていた。

「僕の方が、力をもらっているんです」。京田には遺志を背負っている実感はない。亡き友と戦うことは、もうプロ人生の一部になった。今はただ、2人をつないでくれた遊撃というポジションを突き詰めたい。

1年後、また会いに来る約束を交わした。胸を張ってシーズンの報告ができなければ、先輩としては格好がつかない。新たなグラブとともに迎える2021年。京田は微笑んで言った。

「諒に笑われないようにしないといけませんね」(小西亮 / Ryo Konishi)

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