【ID野球の原点】クセを逆手にとって審判も欺く ボークすれすれの「東尾けん制術」

太平洋時代の東尾。強気のピッチングは「ケンカ投法」と呼ばれ、通算与死球数165は日本記録だ

【ID野球の原点・シンキングベースボールの内幕(7)】野村克也氏の代名詞とも言えるのが、データを重視した「ID野球」。その原点となったのは南海時代にドン・ブレイザー氏が日本に持ち込んだ「シンキングベースボール」だった。「ブレイザーの陰に市原あり」と呼ばれた側近の市原實氏が、2007年に本紙で明かした内幕を再録――。(全16回、1日2話更新)

「分かっているからこそ打てない」。そう思い知らされたのが1970年10月6日の近鉄戦。南海は佐々木宏一郎に完全試合を喫してしまった。

佐々木は下手投げの技巧派で、スローカーブで打者のタイミングを外してくるタイプの投手だったが、そのスローカーブを投げるときにクセがあり、南海はそれを見抜いていた。しかし、必要以上に力が入ってしまったのか、分かっているはずのボールをことごとく打ち損じ…。あの時の南海ベンチでは誰もが歯ぎしりをしたものだ。

一方、阪急の山田久志や近鉄の鈴木啓示ら、リーグを代表する投手たちはクセにも細心の注意を払っていたように思う。山田はクセらしいクセが見つからなかったし、インハイ胸元の直球はたとえ予想していたとしても打てなかった。守備力もあったからバントで揺さぶるわけにもいかず、クイックも速かったから足でかき回すことも難しかった。

鈴木も外角への制球力がズバ抜けていたし、けん制もうまかった。基本的に左投手の場合、けん制のクセはフォーム始動時の顔の位置をチェックしていればたいていは分かったが、鈴木だけは例外で、なかなか判断できなかった。

けん制で思い出すのはライオンズの東尾修だ。彼にはボークすれすれのけん制技術があり、大事な場面になるとこの〝特技〟を出してきた。

東尾の場合、一塁走者はその左肩に注目する。左肩が内側に入る瞬間が、投球動作に入る合図となり「ゴー」の判断を下せたからだ。だが、やがて東尾はそれを逆手に取り、わずかに左肩を内に入れる動きを見せた直後に反転して一塁へけん制した。厳密にいえばボークなのだが、東尾は審判の目を欺くのがうまく、大事な場面になるほどこの反則けん制を出してきた。そこで南海ベンチはこれに対応するため、逆に大事な場面ほど一塁塁審に「左肩を注意して見ていてください」と声を掛けることにした。ボークを取られた東尾は「どこがボークなんだ!」と烈火のごとく怒っていた。

東尾はシュートとスライダーのコンビネーションの投手で、打者はえげつないシュートを意識させられた後「分かり切っている」スライダーに腰を引かされて凡打。だが、捕手のサインに首を振った後に分かりやすいパターンがあり、配球の分析からもカウントを取りにくるスライダーの傾向が浮上した。そこで南海打線は「カウント球の内角スライダー」を狙い東尾攻略に成功した。

当時の南海では相手投手攻略に欠かせなかった「配球分析」と「クセ盗み」。ちなみに「クセ盗み」のポイントは大まかにいえば5つのポイントに分類されていた。=敬称略=

☆いちはら みのる 1947年生まれ。千葉県出身。県立千葉東高―早稲田大学教育学部。早大では野球部に入部せず、千葉東高の監督をしながらプロの入団テストを受験し、69年南海入り。70年オフに戦力外通告を受け71年に通訳に転身する。79年に阪神の監督に就任したブレイザー氏に請われ阪神の守備走塁伝達コーチに就任。81年にブレイザー氏とともに南海に復帰すると、89年からは中西太氏の要請を受けて近鉄の渉外担当に。ローズ、トレーバーらの優良助っ人を発掘した。ローズが巨人に移籍した04年に編成部調査担当として巨人入団。05年退団。

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