【ID野球の原点】73年に前期優勝した南海 早くもプレーオフにらみ後期は力を温存

移籍初年度の1973年に20勝をマークした山内新一。76年にも20勝を挙げるなど、南海投手陣の大黒柱となった

【ID野球の原点・シンキングベースボールの内幕(10)】野村克也氏の代名詞とも言えるのが、データを重視した「ID野球」。その原点となったのは南海時代にドン・ブレイザー氏が日本に持ち込んだ「シンキングベースボール」だった。「ブレイザーの陰に市原あり」と呼ばれた側近の市原實氏が、2007年に本紙で明かした内幕を再録――。(全16回、1日2話更新)

1967年からの6年間で5度のリーグ優勝を飾るなど、当時のパ・リーグは阪急の黄金期だった。打の福本、加藤、長池、住友、大橋、高井に投の米田、山田らそうそうたるメンバーが並び、投手力、守備力、打撃力、機動力のすべてが南海よりも上。そんな阪急を倒すため、南海が最大限に利用したのが73年から導入された「2シーズン制」だった。

前期は江本孟紀、西岡三四郎の二本柱を軸に、巨人から移籍した山内新一が大活躍。当初、抑えで起用した山内は幸運な勝ち星こそあったが結果は出せず、そこで先発へ配置転換してみるとあれよという間に勝ちまくり、いつの間にか大黒柱となっていた。投打の歯車もかみ合い、チームとしても特に本拠地・大阪球場では圧倒的な強さを発揮した。そうして前期優勝を飾った南海は、早速プレーオフへ向けての準備に取り掛かったのだ。

後期はブレイザーと野村の指示により、ベンチワークや配球データ、フォーメーションなど阪急に手の内を見せないことが最優先された。主力投手は極力阪急戦には投げさせず、サインも最小限しか出さなかった。例を挙げれば山内はシュートで内角を意識させた後のスライダーが決め球だったのだが、後期の野村は「見せ球」であるシュートのサインを山内にほとんど出さなかった。すべてはプレーオフを想定した戦略だった。

その結果、後期の対阪急戦は実に1分け12敗と惨たんたる成績。だが、南海は手の内を隠し、早い段階からプレーオフに何とか勝つための作戦をひたすら練っていた。阪急に勝つためにはそうするしかなかったのだ。

なかでも大きなテーマとなったのが阪急最大の得点源だった福本の足を「どうやって防ぐか」という点だ。そこでブレイザーと野村は「福本封じ」に腐心し、ブレイザーは走者心理として「どういうタイプの投手が走りにくいか」という観点から、さまざまなパターンをあらためて投手に提示した。一方、野村は新たなクイック投法を会得するよう投手に指示した。

後期はやはり阪急が制した。「後期は1試合も阪急に勝てなかった南海が、プレーオフで勝てるわけがない」。さすがに下馬評では圧倒的な阪急有利とみられたが、ここで野村はまたも大胆な方針を決めた。それが5戦制のプレーオフで「1、3、5戦を全力で取りに行く」という奇数戦を重視する作戦だ。確かに阪急に連勝するのは難しい。ミーティングでそんな青写真を打ち明けた野村の言葉には悲壮な決意を感じたものだ。

王者・阪急を倒すためにやれることはすべてやった。そして野村野球の集大成ともいえるプレーオフが始まった――。=敬称略=

☆いちはら みのる 1947年生まれ。千葉県出身。県立千葉東高―早稲田大学教育学部。早大では野球部に入部せず、千葉東高の監督をしながらプロの入団テストを受験し、69年南海入り。70年オフに戦力外通告を受け71年に通訳に転身する。79年に阪神の監督に就任したブレイザー氏に請われ阪神の守備走塁伝達コーチに就任。81年にブレイザー氏とともに南海に復帰すると、89年からは中西太氏の要請を受けて近鉄の渉外担当に。ローズ、トレーバーらの優良助っ人を発掘した。ローズが巨人に移籍した04年に編成部調査担当として巨人入団。05年退団。

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