アパートから追い出された長与を救ったデビル雅美

ようやくデビュー戦を迎えた長与だったが…

【長与千種・レジェンドの告白(6)】プロテストに合格した私は巡業に同行することになる。同じ日には大森ゆかりやダンプ(当時は松本香)さんも合格していた。この年に全女は2リーグ制を導入。2つのチームで全国各地を回った。私は二軍的な存在だったBチームに入れられ、いきなり50日間の巡業が始まった。

プロテストに合格した日はそのままセコンドに就けと命じられたが、先輩レスラーに「邪魔だ、どけ!」と蹴られて頭から血が出た。血が出たけどどうしていいか分からないから、白いTシャツで頭を拭きながらセコンドを続けた。何も教えられないまま、いきなりプロレスラーとしての生活が始まった。

巡業でも休む間なんてない。朝6時に起きて朝練を1時間半ほどやってから、先輩たちの食事の用意とバスへの荷物運び。会場に着いたらリング作りと売店の設置が待っている。当時の全女は「新人は、給料なくて当たり前。人より働いて当たり前」という教えだった。代わりなんていくらでもいるというわけだ。今言ったら大問題になるだろうけれど(笑い)。

そうしているうちについにデビュー戦が決まった。8月8日、田園コロシアム。相手は大森ゆかり。ビューティ・ペアは引退してブームは下火になっていたけど、この日はミミ萩原さんの新曲発表とトミー青山さんの引退試合が行われるビッグマッチだった。

デビュー戦は全然覚えていない。14分ぐらいで負けちゃったんだけど、どんな内容だったのか一切記憶にない。頭は真っ白だった。唯一覚えているのは、悔しくて泣いて見上げた場内の照明だった。涙でにじんだテレビ放送用のきらびやかなライトだけが、今でも脳裏に刻まれている。

そうして引き揚げると引退試合を控えていたトミーさんに怒られた。「これぐらいで泣くんじゃない。これから本当に泣かなくちゃいけない時が来る。そんな涙はいらない」と。ハッと我に返った。最後はその言葉を胸に抱きながら会場最上段の売店からトミーさんの引退試合を見ていた。

トミーさんは先輩レスラーのなかでも異色の存在だった。中京大学出身で、よく本を読まれていた。ヒザをケガして休んでいたのでよく道場で練習を見てもらった。「ここにいると他の世界が分からなくなる。本を読みなさい」とも教えられて、何冊ものハードカバーをいただいた。私が本をよく読むようになったのは、トミーさんのおかげだ。

デビュー戦を終えたものの、その後、私は試合を組んでもらえなくなっった。選手が多過ぎたからだ。1981年になるとリーグ制が廃止され、A、Bチームが1つに統一される。要するに選手は倍になり、私はなおさら試合を組まれなくなる。2年目なんて200大会以上はあったのに、出た試合は両手両足の数(20試合)に届かなかったと思う。当然収入はなくなる。当時の私は「いやなら辞めていいよ」程度の存在だった。

その年の春には寮を出て目黒に四畳半の家賃2万円のアパートを借りたものの、家賃滞納で2度追い出された。救ってくれたのは当時トップだったデビル雅美さんだ。「みっともないからこれで家賃を払って私の家に来なさい」とお金を渡してくれた。デビルさんは3LDKのマンションに住んで、部屋が余っていた。私はビデオ付きのテレビやエアコンを見て「スゲーなあ」と驚くしかなかった。当時で3000~4000万円の収入があったんじゃないかと思う。

そうして不遇の日々を送っていた私のレスラー人生を変える存在が現れる。北村智子。後のライオネス飛鳥だ。

(構成・平塚雅人)

☆ながよ・ちぐさ=本名同じ。1964年12月8日、長崎・大村市出身。80年8月8日、全日本女子田園コロシアム大会の大森ゆかり戦でデビュー。83年からライオネス飛鳥とのクラッシュギャルズで空前の女子プロブームを起こす。89年5月引退。93年に復帰し94年にガイア・ジャパン旗揚げ。2005年に解散して再引退。数試合を経て14年に再復帰しマーベラス旗揚げ。15年に大仁田厚と東京スポーツ新聞社制定「プロレス大賞」最優秀タッグ賞受賞。20年に北斗晶らと女子プロ新組織「アッセンブル」を旗揚げ。

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