【ID野球の原点】後期1分け12敗の阪急とのプレーオフ 南海は「奇数戦を勝つ」大胆作戦に出たが…

阪急黄金期の象徴だった福本の足

【ID野球の原点・シンキングベースボールの内幕(11)】野村克也氏の代名詞とも言えるのが、データを重視した「ID野球」。その原点となったのは南海時代にドン・ブレイザー氏が日本に持ち込んだ「シンキングベースボール」だった。「ブレイザーの陰に市原あり」と呼ばれた側近の市原實氏が、2007年に本紙で明かした内幕を再録――。(全16回、1日2話更新)

1973年からパ・リーグでは2シーズン制が導入され、その初年度の前期は南海、後期は阪急が制した。

当時は阪急が黄金時代を迎えていて、プレーオフの下馬評でも圧倒的な阪急有利。実際、後期の直接対決でも1分け12敗と、南海は阪急に全く歯が立たなかった。

とはいえプレーオフを見据えた野村監督の方針で、後期の南海は手の内を隠していた部分が大きかったから、この対戦成績は割り引いて考える必要がある。ただ、それでも1つも勝てなかったのだから戦力差は否めないだろう。

しかし、短期決戦なら何が起きるか分からない。南海は阪急との大きな戦力差を埋めるためにもチームのスローガンだった「シンキング・ベースボール」(考える野球)を最大限に生かす作戦を練り、プレーオフに備えた。そのひとつが野村の「阪急に連勝は難しい。とにかく1、3、5戦を全力で取りにいこう」という方針であり、阪急の得点源である福本豊を、このプレーオフで初めて披露するクイックで足止めする「福本封じ」だった。

さすがの福本でも、いきなり見たこともないクイックをやられたら戸惑うものだ。そうして一時的にでも福本を封じることに成功した南海は、試合展開も野村の狙い通りに運ぶことになる。第1戦を接戦の末に4―2で制すと、第2戦では打ち合いの末に7―9で敗れた。だが、ポイントとなった敵地での第3戦に最も信頼できる江本孟紀を立てて6―3と快勝すると、第4戦は逆に1―13と大敗した。奇数戦では惜しげもなく投手をつぎ込み、偶数戦では無理をしなかった。まさに野村の青写真通りに展開した。

迎えた第5戦は、8回まで両軍無得点のまま最終回に突入。ここで打席に入ったウィリー・スミスが右翼席へ決勝ソロを叩き込むのだが、これはブレイザーと野村の信頼関係があったからこその決勝弾だった。

7回表、外野守備に難のあるスミスが打席に立った場面では、すでに守備固めの阪田隆がキャッチボールをして交代に備えていた。だが、ブレイザーが野村に「ムースよ、もう1回、彼のバットにかけてみないか」とささやいたのだ。

野村にも予感めいたものがあったのだろう。野村はすぐさま阪田をベンチに呼び戻すと、凡退したスミスをそのまま守備につかせた。結果的にあの時の判断が9回の決勝弾につながった。

さらに広瀬叔功にもソロが飛び出し2―0。これで決まったかと思われたが、そこはさすがに王者・阪急。簡単には終わらせてくれない。9回裏には思わぬ展開が待っていた。=敬称略=

☆いちはら みのる 1947年生まれ。千葉県出身。県立千葉東高―早稲田大学教育学部。早大では野球部に入部せず、千葉東高の監督をしながらプロの入団テストを受験し、69年南海入り。70年オフに戦力外通告を受け71年に通訳に転身する。79年に阪神の監督に就任したブレイザー氏に請われ阪神の守備走塁伝達コーチに就任。81年にブレイザー氏とともに南海に復帰すると、89年からは中西太氏の要請を受けて近鉄の渉外担当に。ローズ、トレーバーらの優良助っ人を発掘した。ローズが巨人に移籍した04年に編成部調査担当として巨人入団。05年退団。

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