【ID野球の原点】「オレの帽子とグラブはどこや!」パ制覇を決めた江本の大慌て登板

1973年のプレーオフで阪急を下し、リーグ優勝を決めた南海。野村監督に続いてブレイザーも胴上げされた

【ID野球の原点・シンキングベースボールの内幕(12)】野村克也氏の代名詞とも言えるのが、データを重視した「ID野球」。その原点となったのは南海時代にドン・ブレイザー氏が日本に持ち込んだ「シンキングベースボール」だった。「ブレイザーの陰に市原あり」と呼ばれた側近の市原實氏が、2007年に本紙で明かした内幕を再録――。(全16回、1日2話更新)

2勝2敗で第5戦に突入した1973年の阪急とのプレーオフは、両軍無得点で迎えた9回表、南海のウィリー・スミス、広瀬叔功に連続本塁打が飛び出した。これで2―0とリードを奪い、残るはアウト3つだけ。さすがに「勝負あり」かと思われた。

南海のマウンドにはストッパーとして信頼されていた佐藤道郎。このプレーオフでは新たに会得したクイックモーションで阪急の得点源・福本豊の足を封じ込めることに成功するなど、ここまで阪急打線をキッチリ封じていた。そして最終回もポンポンと二死を取り、いよいよあと1人…。西宮球場のベンチ裏には優勝の瞬間に備えて新聞記者が大挙して詰め掛けるなど、すでに押すな押すなの大混乱の状態に陥っていた。

ところがさすがは王者・阪急だ。土壇場の土壇場で代打に起用された当銀秀崇が右翼席へソロ本塁打を叩き込んで1点差に詰め寄ると、ここで出てくるのはもうあの打者しかいない。西本幸雄監督はゆっくりベンチを出てくると後に代打本塁打の世界記録をマークする、とっておきの切り札・高井保弘の名を審判に告げた。

これにはマスクをかぶっていた野村もたまらずベンチを振り返り、投手交代の指示を出す。こうなったらもう頼れるのは第3戦のヒーロー・江本孟紀しかいない。だが、驚いたのは当の江本で、もう出番はないと思い、ベンチですっかりリラックスしていた。そんなところへ声が掛かったのだから「オレの帽子とグラブはどこや!」と大慌て。大混乱の中、みんなで江本の帽子とグラブを探したもので、江本は肩慣らしもそこそこにスパイクをつっかけ、マウンドへと駆け上がっていった。

実際、このプレーオフではこれが3試合目の登板となる江本の肩はパンパンに張っていた。だが、最後の最後でこん身のボールを投げ込んでみせた。江本が投じた真ん中高めのストレートを高井は強振。だが、そのバットは空を切って空振り三振――。その瞬間、南海の7年ぶり、野村が監督に就任してから初めてとなるリーグ優勝が決まった。

圧倒的な戦力を誇る阪急をいかにして倒せばいいのか…。そのためにブレイザーとともに知恵を絞り、野村が執念で書き上げた「弱者の戦術」ともいえるシナリオは、こうして完結した。わずか中2日で臨んだその後の日本シリーズでは、V9に王手をかけていた巨人と戦い1勝4敗で敗れたが、あの73年のシーズンは野村野球の真骨頂であり、最高傑作だったのではないかと思っている。=敬称略=

☆いちはら みのる 1947年生まれ。千葉県出身。県立千葉東高―早稲田大学教育学部。早大では野球部に入部せず、千葉東高の監督をしながらプロの入団テストを受験し、69年南海入り。70年オフに戦力外通告を受け71年に通訳に転身する。79年に阪神の監督に就任したブレイザー氏に請われ阪神の守備走塁伝達コーチに就任。81年にブレイザー氏とともに南海に復帰すると、89年からは中西太氏の要請を受けて近鉄の渉外担当に。ローズ、トレーバーらの優良助っ人を発掘した。ローズが巨人に移籍した04年に編成部調査担当として巨人入団。05年退団。

© 株式会社東京スポーツ新聞社