【ID野球の原点】阪神監督を引き受けたブレイザーから「力を貸してくれ」とコーチ就任要請が

阪神再建の切り札として白羽の矢を立てられたブレイザー。阪神初の外国人監督だった

【ID野球の原点・シンキングベースボールの内幕(13)」野村克也氏の代名詞とも言えるのが、データを重視した「ID野球」。その原点となったのは南海時代にドン・ブレイザー氏が日本に持ち込んだ「シンキングベースボール」だった。「ブレイザーの陰に市原あり」と呼ばれた側近の市原實氏が、2007年に本紙で明かした内幕を再録――。(全16回、1日2話更新)

1977年、野村は南海の監督を解任され、ブレイザーも南海を退団。だが「シンキング・ベースボール」(考える野球)を提唱し、日本野球に革命を起こした男を放っておく手はない。すぐさま南海時代のチームメートでその後、広島の監督をやった古葉竹識に請われて広島の守備兼ヘッドコーチに就任。79年には阪神から監督として招かれることになった。

あれはブレイザーの阪神監督就任が発表される数日前のこと、私のところへある新聞記者が飛んできて「イチさん、どうにかしてブレイザーに連絡を取れないか!」とまくしたてられた。事情を聴いてみると、どうやら「阪神の新監督が外国人になる」という情報をつかんだらしく、この記者は「ブレイザーしかいない」と思ったそうだ。そこで米国へ帰国していたブレイザーに国際電話をかけてみると、家人によれば「今ごろは日本行きの飛行機に乗っているはずだ」という。「よっしゃ、決まりや!」。翌日の新聞紙上には「阪神新監督にブレイザー」という活字が躍っていた。

やがて私の元にもブレイザー本人から連絡が入り「阪神の監督を引き受けることになった。私に力を貸してくれ」とコーチ就任を要請された。ただ、選手としての実績が全くない私が「とんでもない」と二の足を踏んでいると「私の野球を一番理解しているのは君だろう? 初めてで不安なのは監督をやる私も一緒だ。これまでのようにサポートしてほしい」。そう説得された私は「ブレイザーの野球を正しく伝えていくことができれば」と思い決心した。肩書は守備走塁コーチ。私の夢は高校野球の指導者になることだったから、プロの指導者としての経験は大きな財産になるとも思った。

当時の阪神は大きな改革に動いていた。78年には球団史上初の最下位に転落し、後藤次男監督は責任をとって辞任。このオフに球団社長に就任した小津正次郎は低迷から脱出するため、次々と大胆な手を打った。主砲の田淵幸一とエース級の古沢憲司を西武に放出し、真弓明信、竹之内雅史、若菜嘉晴を獲得。ブレイザーの前には広岡達朗の招聘にも動いていた。あの「江川事件」で巨人がボイコットしたドラフトで江川卓を1位指名したのもこのオフだ。結果的に阪神は巨人のエース・小林繁を江川とのトレードで獲得した。

阪神は大きく変わろうとしていた。球団初の外国人監督となったブレイザーは、その象徴だったように思う。実にその20年後、盟友・野村も阪神の監督を引き受けることになるが、改革を期待されたブレイザーは野村と同様、阪神では苦労の連続だった。これも2人の運命なのかもしれない。=敬称略=

☆いちはら みのる 1947年生まれ。千葉県出身。県立千葉東高―早稲田大学教育学部。早大では野球部に入部せず、千葉東高の監督をしながらプロの入団テストを受験し、69年南海入り。70年オフに戦力外通告を受け71年に通訳に転身する。79年に阪神の監督に就任したブレイザー氏に請われ阪神の守備走塁伝達コーチに就任。81年にブレイザー氏とともに南海に復帰すると、89年からは中西太氏の要請を受けて近鉄の渉外担当に。ローズ、トレーバーらの優良助っ人を発掘した。ローズが巨人に移籍した04年に編成部調査担当として巨人入団。05年退団。

© 株式会社東京スポーツ新聞社