【ID野球の原点】「野球は耳と耳の間でやるスポーツ」ブレイザーの言葉を後世に伝えたい

1974年、南海の新外国人選手ロン・ロリッチを出迎える筆者(右)

【ID野球の原点・シンキングベースボールの内幕(最終回)】野村克也氏の代名詞とも言えるのが、データを重視した「ID野球」。その原点となったのは南海時代にドン・ブレイザー氏が日本に持ち込んだ「シンキングベースボール」だった。「ブレイザーの陰に市原あり」と呼ばれた側近の市原實氏が、2007年に本紙で明かした内幕を再録――。(全16回、1日2話更新)

1980年のシーズン途中に阪神を退団したブレイザーは翌81年、南海の監督に就任。だが、その手腕を存分に発揮することはできなかった。3年契約を結んだ2年目のシーズン中に不整脈が出てしまい、82年のシーズン終了後、米国へ帰ることになった。

「ムースともう1回やれたらよかったのにな…」。ブレイザーは別れ際、私にそう言った。77年までに野村克也とともに築き上げた南海の頭脳野球は、2人が退団した後の3年の間に失われていった。江夏豊、柏原純一らの主力はチームを去っており、最大の理解者であり投手陣をリードで支えた野村ももういない。ブレイザーは土台作りを任された中、志半ばにして帰国していった。

だが、選手、指導者として、16年もの長きにわたって日本球界にかかわってきたブレイザーが残してくれた財産は大きかった。シンキングベースボールは多くの野球人に影響を与え、この連載などで私が触れてきた戦略の一部は、将来の日本球界を担う少年たちにも生かせる部分が多いハズだ。

野球は体格だけのスポーツではない。体が小さく、足が遅い少年でも頭を使った野球を教えてあげることで野球が楽しくなる。野球には様々な作戦があり、そんな相手の作戦や配球を読み、投手を研究する。指導者が選手の方向性、どんなタイプになったらいいかを適切に助言してあげることができれば「これくらいなら自分にもできそうだ」と興味を持って取り組むことができる。結果が出れば野球がさらに楽しくなるだろう。

それには指導者も学ぶことだ。名手、策士と呼ばれた広岡達朗はヤクルト監督時代、ブレイザーのプレーをお手本にして「これが正しいゴロの捕り方である」と選手に指導した。また、ブレイザーの元へやって来ると、フォーメーションを含めた戦術についても質問を浴びせていた。素晴らしい指導者は常にそういう姿勢を持っている。それはプロでも変わらない。

プロ入り前、私は大学に通う傍ら母校の野球部の監督をやっていた。運よく関東大会に進出し「あと1勝で甲子園」というところまで行くことができたが、指導者としては未熟だった。後輩たちにもっといい思いをさせてあげたい。それには野球を勉強するしかなかった。そんな思いでプロの世界に飛び込んだ私にとって、ブレイザーとの出会いはまさにかけがえのない財産になった。

私もまだ夢を捨ててはいない。いつか高校野球の指導者となり、教え子たちを甲子園に連れていければと思っている。そうやってブレイザーから教わった野球をもっともっと後世に伝えていきたい。「野球は耳と耳の間でやるスポーツだ」。ブレイザーのこの言葉が今も私の脳裏に焼き付いている。=敬称略=(おわり)

☆いちはら みのる 1947年生まれ。千葉県出身。県立千葉東高―早稲田大学教育学部。早大では野球部に入部せず、千葉東高の監督をしながらプロの入団テストを受験し、69年南海入り。70年オフに戦力外通告を受け71年に通訳に転身する。79年に阪神の監督に就任したブレイザー氏に請われ阪神の守備走塁伝達コーチに就任。81年にブレイザー氏とともに南海に復帰すると、89年からは中西太氏の要請を受けて近鉄の渉外担当に。ローズ、トレーバーらの優良助っ人を発掘した。ローズが巨人に移籍した04年に編成部調査担当として巨人入団。05年退団。

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