戻ってきたアメリカのレース。2003年ロンドン・チャンプカー・トロフィー【サム・コリンズの忘れられない1戦】

 スーパーGTを戦うJAF-GT車両見たさに来日してしまうほどのレース好きで数多くのレースを取材しているイギリス人モータースポーツジャーナリストのサム・コリンズが、その取材活動のなかで記憶に残ったレースを当時の思い出とともに振り返ります。

 今回は2003年にイギリス・ブランズハッチで開催されたCARTチャンプカーシリーズ第4戦ロンドン・チャンプカー・トロフィー。子供の頃からテレビでチャンプカーを観戦していたコリンズが、初めて生で見たときの興奮を振り返ります。

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 私が1980年代と1990年代初めにイングランドで子供時代を過ごしていた頃、イギリスのテレビにはふたつの『BBC』チャンネルと、ふたつのコマーシャル局というたった4つのチャンネルしかなかった。一部の人たちは衛星テレビやケーブルネットワークでチャンネルを追加していたが、それほど一般的なことではなく、私の家にもなかった。

 1997年に入るとすべてが変わった。新テレビ局の『Channel 5』が3月の終わりに開局したのだ。ポップグループのスパイスガールズが流行った頃だ(メンバーのなかにはクリスチャン・ホーナー代表の未来の妻がいた)。このチャンネルが放送するものは、低予算のメロドラマのような残念なものばかりだったが、なかには素晴らしいものもあった。

 それは毎週日曜日の真夜中に放送されていた “Live and Dangerous”と表示されたコンテンツだ。すぐにそれがオールナイトのスポーツショーであること、そしてこの新しいショーは、CART(1996年にインディカーから分裂してできたシリーズ)の新モーターレースの生中継を行うことが分かった。私は雑誌でレースレポートを読んだり写真を見たりしただけだったので、初めてアメリカのレースを観るのに興奮したことを覚えている。

 私はすぐにチャンプカーに夢中になり、すべてのレースを観た。当時“Live and Dangerous” は何時からレースをスタートするのか表示していなかったので、一晩中起きていることになったし、雑誌にもレースのスタート時刻は掲載されていない。ロンドンとアメリカの時差があるため、特に西海岸でのレースは非常に遅い時間に放送されていた。

 おかげで月曜日の朝に学校に行くと、授業中は居眠りばかり。月曜日の最初の授業は宗教教育だったが、一度先生にとても怒られたことがある。先生はなぜ自分の授業中にいつもそれほど疲れているのか教えるように要求した。

 私が遅くまで起きて、アメリカのモーターレースを観ていることを認めると、先生は怒り、「レーシングカーを観ていることで生活はできませんよ。あなたの学校での勉強のほうがもっと重要です」と私に叫んだ。そのことを思い出すといまだに笑ってしまう。なぜなら、いまではCARTを観ていたことは、カトリックの聖人について学んだことよりも重要なことになったからだ。

 2003年、私は大学を卒業したばかりで、イギリスのモータースポーツの週間新聞で働き始めた。その年の3月から仕事を始めたのだが、そのたった数週間後に、ブランズハッチで行われるCARTチャンプカー・シリーズ第4戦『ロンドン・チャンプカー・トロフィー』に行くように言われた。

 当時、私は広告部門にいて、アマチュアのラリードライバーや小規模ラリーチームと、どこで古いマシンを売り、新車を買うのがベストか、というようなことを主に話したり、小規模なパーツサプライヤーがアマチュアチームに製品を売るのを手伝ったりしていた。直接モータースポーツとは関係のない仕事だったために、とても驚いたことを覚えている。

 実際のところ、私はレースについて書きたいと思っていた。自分がラリー関係者をたくさん知っていて、チームと彼らが必要としている部品会社を引き合わせるのがうまいことには気づいていたが、やりたいことではなかったのだ。結果として企業が広告を出してくれていたが、それは広告を売るスキルあるおかげというわけではない。

 ブランズハッチに行くように言われたのは、おそらく私が現地に行けばラリーの話でもできるという狙いだったのだろう。そこにはすべての企業のトップ経営陣が来ていて、プロドライブのような大企業がさらに広告を出稿してくれるかもしれないから。

ブランズハッチにはCARTをひと目見ようと約40,000人の観客が集まった

︎ブランズハッチでの1日は素晴らしい日になる予感

 ブランズハッチに到着した私は人で埋め尽くされたサーキットがどのようなものかを見るのが楽しみだった。当時はブランズハッチで多くの時間を過ごし、何かカーレースをやっていないかと、予定のない週末はいつも足を運んでいた。

 ただ、サーキット自体は困難な時期を経ており、BTCC(イギリス・ツーリングカー選手権)を除けば、大観衆が集まることはなかった。しかし、そんななかでも約40,000人の人々がロンドン・チャンプカー・トロフィーだけは観に来ていた。

 私はプレスルームではなく、自分の会社のホスピタリティボックスに行った。そこには上層部のマネージャーたちが全員そろっており、私は会社のなかでも一番の下っ端だったせいで気後れしてしていた。もしレースを観ることに興奮していなかったら、緊張していただろう。

 私はチャンプカーのレースを生で観たかった。なにせ、夜中のテレビ番組でこのシリーズを初めて観て以来のことだ。このシリーズはイギリスのロッキンガム・サーキットに2回来ていたが、その頃の私は学生だったのでお金がなく、チケットを買う余裕がなかった。今ならお金もあるし、きちんとした仕事についている。まぁ仕事で来ていたおかげでチケットを買う必要はなかったのだが……。

 その日はチャンプカーだけではなく、BTCCの2レースも開催された。いつもブランズハッチを盛り上げるレースだ。すべてのレースは短い1.9kmの“インディ・サーキット”で行われた。

 1978年にインディカーレースが行われたときと同じレイアウトで、たった1度だけ開催されたレースに敬意を評して命名されたコース名だ。当時のレースはファンには受けが悪く、その年を最後にインディカー(もしくはCART)はこのコースには戻ってきていなかった。

 しかしいま、ふたたびアメリカのレースが戻ってきた! なんというレース日和だろう。気温は約摂氏18度でわずかに風が吹く素敵な春の1日だ。その日はブランズハッチで素晴らしいレースが行われる日になる“はず”だった。

 私はBTCCを会社のシニアマネージャーのひとりと観戦した。彼は私がレースの大ファンであることを知っていた。同じ部門で働くほとんどの人たちは、ただ仕事としてやっており、モータースポーツのことを本当に気にかけている人はほとんどいなかった。このマネージャーもちょっとしたレースファンであり、彼は私のBTCCとチャンプカーに関する知識に感心していた。

 一方で、私がブランズハッチにきて何をやるべきなのか、なぜここにいるのかということは誰も教えてくれていなかった。仕方ないので、ホスピタリティボックスでレースを観て待っていると、BTCCレースを一緒に観ていたマネージャーがチケットを手に私のところへ来ると、忙しいかどうか訪ねてきた。

 私はまったく忙しくはなく、ここにはラリー関係者もいないので、自分がここで何を期待されているのか分からないと説明した。すると、マネージャーはこう言った。

「OK。それならこれを持ってピットへ行って楽しんでくるといい」

 そう言ってチケットを渡されたが、私はなんのチケットか確認もせず、誰にあげればよいのかを尋ねた。

「それは君のものだよ」

 なんとそのチケットは、ペースカーに乗るためのものだったのだ!

2003年CARTチャンプカーシリーズ第4戦 ロンドン・チャンプカー・トロフィー ポールポジションを獲得したポール・トレーシー(チーム・プレイヤーズ)

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サム・コリンズ(Sam Collins)
F1のほかWEC世界耐久選手権、GTカーレース、学生フォーミュラなど、幅広いジャンルをカバーするイギリス出身のモータースポーツジャーナリスト。スーパーGTや全日本スーパーフォーミュラ選手権の情報にも精通しており、英語圏向け放送の解説を務めることも。近年はジャーナリストを務めるかたわら、政界にも進出している。

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