長与千種「つかこうへいさんの言葉」でプロレス復帰を決意

映画「リング・リング・リング」完成試写会(左から長与、島田陽子、阿部寛)

【長与千種・レジェンドの告白(12)】1989年5月10日の横浜アリーナ大会を最後に私は引退した。総収入は2億円を超えたと聞く。でも限界を感じての引退ではなかった。私はいまだに「燃え尽きる」という感覚を知らない。よく他のプロスポーツ選手が「限界です」と一線を退く理由を明かしているが、この時の引退にはあまりにいろいろなことが重なってしまった。

25歳で私は真っ白なキャンバスの前に立たされた。芸能プロダクションに入ったものの、すぐに大きな仕事が来るわけでもない。やがてその年の秋に「紹介したい人がいる」と言われた。劇作家の故つかこうへいさんだ。「蒲田行進曲」を監督した人であることは知っていたし、とても偉大な方なのでかなり緊張した。その後、つかさんは私の人生においてかけがえのない存在になる。

当時、北区・田端にあった稽古場を訪れた。ソファで隣に座り、役者さんたちとの演出のやりとりを間近で見させてもらったのだが、そのリズムが心地よく、こともあろうに私はつかさんに頭を預けるように居眠りしてしまった。2時間以上、そのまま眠り続けてつかさんは立つに立てなかったらしい(笑い)。

「俺の横で居眠りした人間は初めてだ。お前の人生、俺にしばらく預けてみないか」。つかさんからはそんな主旨の言葉をもらった。確かにそんな人間、いなかったのだろう。「砂利はそのへんにいくらでも転がっているけど、お前は磨けば磨くほど光る原石だ」とも言ってくれた。私にはひとつの道が見えてきた。

つかさんはプロレスを見ていなかったはずなのに、的確な言葉をいただいた。印象的だったのは皆の前で「舞台は一面の世界だけど、こいつは(リングの)4面に向かって表現する世界に生きてきた。だからスキがない」という言葉だ。そうして当時大人気を集めていた『熱海殺人事件』で重要な役をいただいた。毎公演ごとに「マイ・ウェイ」を歌いながら、観客の誰かにキスするという役だった。当時はイヤでイヤで仕方なかったけど、思えばあれで相当肝は座ったと思う。

91年になると女子プロレスを題材にした「リング・リング・リング」(93年に島田陽子主演で映画化)で主役を任された。この作品で長与千種を再び世に出してもらった。つかさんがいなければ、私が再び女子プロレス界に戻ることもなかったと思う。この舞台では「お前が女子プロレスを変えろ」というせりふがあった。千秋楽になると、それは「女子プロレスを変えるのはお前しかいない」というせりふに変わっていた。それは私に対する言葉であり、つかさんなりのメッセージだったと思う。

引退して3年がたっていた。しかしことごとく誰もがプロレスに戻れと言う。当時所属したプロダクションの社長も「プロレスに戻るべきじゃないか」と背中を押してくれた。流れが変わった。こうして私は93年4月の全女横浜アリーナ大会で復活。95年にはガイア・ジャパンという団体を設立した。

ガイアは10年間続いて2005年に解散したけど、ある意味で女子プロレスに革命をもたらしたと思う。もし私が役員に名を連ねていたら、解散はなかったんじゃないかなとも思う。私は解散と同時に2度目の引退。その後は7年間、プロレスを一切見ない生活に入るが、不思議な力に呼び寄せられるようにプロレスの世界に舞い戻ることになる。

(構成・平塚雅人)

☆ながよ・ちぐさ=本名同じ。1964年12月8日、長崎・大村市出身。80年8月8日、全日本女子田園コロシアム大会の大森ゆかり戦でデビュー。83年からライオネス飛鳥とのクラッシュギャルズで空前の女子プロブームを起こす。89年5月引退。93年に復帰し95年にガイア・ジャパン旗揚げ。2005年に解散して再引退。数試合を経て14年に再復帰しマーベラス旗揚げ。15年に大仁田厚と東京スポーツ新聞社制定「プロレス大賞」最優秀タッグ賞受賞。20年に北斗晶らと女子プロ新組織「アッセンブル」を旗揚げ。

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