名人達の打撃理論 青田の名言と長嶋の迷言

1979年巨人秋季キャンプ、長嶋監督と青田ヘッドコーチ

【越智正典 ネット裏】大正9年、青雲の志を抱いて上京、日本初の職業球団「日本運動協会」の練習生公募試験を受験。野球実技、簿記、英語を抜群の成績で合格。月給15円を貰えることになった島根商業の山本栄一郎は、昭和9年元旦の読売新聞の社告を見て秋にベーブ・ルースが来日するのを知った。全日本監督市岡忠男に入団(大日本東京野球倶楽部、巨人軍)志願の手紙を書いた。

同協会は明治36年11月21日、三田綱町で挙行された早慶野球戦第1戦に投げた早大河野安通志(35年殿堂入り)らによって創立された。東京都港区芝浦にオシャレな球場。センターのうしろにハイカラな西洋館のクラブハウス。山本栄一郎は対早大など投打に活躍。人気スターになった。大正12年関東大震災。往時のファンに親しまれた通称「芝浦協会」はグラウンドを「帝都復興」の資料置き場に提供。「宝塚協会」に引き取られる。

山本は大連実業でエースで4番。六代目尾上菊五郎球団にも招かれた。水原茂は「六代目は“まだ足りぬ、おどりおどりで100までも”といっていたなあー」。巨人のミーティングで話していた。菊五郎球団の球団名は「音羽屋巨人軍」。山本は「湯殿から出て手拭を肩に月を眺める姿で打席に立て!」とノートに書き残している。

本紙評論家だった青田昇は心がひろい快男児だったが、昭和17年兵庫県滝川中学から巨人に入団。なかばに三塁から中堅に転出すると打率3割1分5厘。18年19歳で打点王。終戦後、選手は食料事情から近くのチームに所属。青田は阪急に2年。23年巨人に戻り、3番青田、4番川上。左翼ポールを巻き込むホームランが十八番。背番号23がくるっと回るのがたのしかった。

青田は「休みの日にどこへ行ってのんびりするか、駅で時刻表を眺めるような姿で打席に立て!」

阪急にコーチに招かれたときは長池徳士、撫養高、法政、41年阪急入団、MVP2回ほか…を育てたが青田は朝の特打のときから付きっきりで「耳のとなりにポールがあると思って打て!」。

昭和38年7月2日、巨人は前の年に情熱のオーナー永田雅一が、東京の下町南千住に、サンフランシスコ・ジャイアンツの本拠地(当時)キャンドルスティック・パークにならって建てた東京スタジアムにこの年も主催ゲーム、対国鉄を持っていた。正力松太郎の永田への配慮である。一箱5個入りで100円のおにぎり弁当が飛ぶように売れていた。

長嶋茂雄の打撃練習はすさまじかった。少年たちが球を追って外野席を走る。打ち終えてケージから出て来た長嶋に「赤い手袋」の柴田勲が訊いた。長嶋が珍しくバッティングについて語った。それまで私が見に行った限りだが長嶋は自分のバッティングを喋っていない。柴田には、ふだん野球ルールを教わっている義理があった。

柴田が「右に左にどうやってホームランを打ち分けるんですか」。長嶋は、はじめきょとんとしていたが「バッティング? オレにもよく分かんないよ。勲! 来た球をひっぱたけばいいんだ。打つんじゃない、ひっぱたくんだ。打ち分け? 球の行方まで面倒見切れないよ」。東京球場は、いまは「荒川総合スポーツセンター」になっている。=敬称略=

© 株式会社東京スポーツ新聞社