2005年 藪メジャー移籍 「37歳で160キロ出す」と自信満々にクレメンス超え誓う

アスレチックスに入団した藪恵壹

【球界平成裏面史 阪神世界一編(2)】阪神が平成16年(2004年)3月29日、日本でのMLB開幕戦を控える名門・ヤンキースを11―7で破った「歴史的勝利」は大いに盛り上がった。しかし、この時何よりも注目されていたのはゴジラこと松井秀喜が日本に“初凱旋”してプレーしたことだ。虎との試合では「2番・左翼」で出場し3打数1安打で終えたが、その松井らヤ軍ナインをまぶしい思いで見つめていたのがこの日、2番手で登板した阪神の藪恵壹投手(35=当時)だった。

虎の暗黒時代を支えてきたベテラン右腕は世界最強打線を相手に3回1安打1失点と力投。主砲・ジアンビの代役・クラークに推定150メートル級の特大弾を許し「パワー打者は多いから甘いところに入ったら打たれる。しかし、とてつもなく飛ばすな」と舌を巻いていたが、その後日、本紙に同年オフFAでのメジャー移籍を決心したと“初激白”したのだった。

「まずは優勝してメジャーに行くことが一番。もちろん、シーズンに入ればメジャーは封印してプレーに没頭する。条件はチームの連覇になるでしょ。今までずっと支えてくれたファンがいるし、成績が悪いのに行くわけにはいかないよ」

藪は平成15年(03年)のシーズン中にFA権を取得。もともとメジャー志向がありながら同年オフには行使せず、保持したままシーズンに臨んでいた。キャンプ前は「メジャーを含めたいろんな選択肢から自分の野球人生にベストと思える道を探したい」と話していたが、メジャー移籍1本に絞ったのはまさに“阪神世界一”となった、この時期だった。

すでに30代も半ばを超え、投手生命の先が見えてくる中、周囲からは「無理しなくていい。阪神でユニホームを脱いで指導者になればいい」などの声は多かったが、結局はあこがれのメジャー入りの夢が勝ってしまう。この年、藪は19試合に登板し6勝9敗。チームも4位に沈んだが、それでも海を渡った。

そして翌平成17年(05年)の1月13日(日本時間14日)、アスレチックスと推定年俸100万ドル(当時で約1億500万円)プラス最高30万ドル(約3200万円)の出来高で1年契約し入団を果たした。MLBの貧乏球団を独自の統計学でプレーオフ常連チームにつくり上げ、映画「マネーボール」の主人公としても描かれた辣腕のビリー・ビーンGMにユニホームを着せられた藪は「年を取ったルーキーです」とジョークを交えて自己紹介。「アメリカで野球ができるのが楽しみ。先発でも抑えでも何でもやります。メディアの方たちともいい関係を築いていきたい」などとあいさつした。

この年、藪は相当の自信もあったのか、もともとは球のキレで勝負するタイプなのに本紙には「去年のオフから真っすぐにこだわっている。今なら150キロは出る。いや、メジャーで160キロを出す自信はある。37歳になるオレが160キロ出したら話題になるよ」とブチ上げ「メジャーは皆、寿命が長いから45歳ぐらいまで投げたい」と当時の剛腕・クレメンス超えまで豪語したほどだった。

“阪神世界一”で一気にメジャー入りを加速させた藪。その後もジャイアンツなどメジャーの他球団でも活躍し、阪神の投手コーチ時代を経て現在はユーチューバー、野球評論家として頑張っている。=この項終わり=

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