岐阜県政の戦後史と日曜日の知事選挙~経産官僚同士の激突(歴史家・評論家 八幡和郎)

岐阜県と山形県で1月24日に知事選挙が行われる。それを機会に、それぞれの県の成り立ちと、過去の知事選挙の話を中心とした地方政界史を書いてみたいと思う。今回は岐阜県である。山形県については、選挙後に書く。また、今後も知事選挙などにあわせて同様の記事を紹介したい。

なお、この内容は、「日本史が面白くなる47都道府県県庁所在地誕生の謎」 (光文社知恵の森文庫)および「47都道府県政治地図」(啓文社書房)、「歴代知事300人」(光文社新書)の一部を使っています。

旧岐阜県総合庁舎(Wikipediaより)

岐阜市の中心部は、江戸時代には尾張藩領の商業都市だった。関ケ原の戦いで、かつての三坊法師こと織田秀信は西軍に与したが、功名心に走ったか、西軍主力が美濃に来る前に城外へ出て東軍の先鋒と戦い惨敗して高野山に送られた。

関ケ原の戦いのあと岐阜周辺は、家康の長女亀姫の夫である奥平信昌に与えられたが、岐阜城でなく、中山道の宿場町でもある岐阜市南部に位置し岐阜城から4キロほどの加納を本拠とすることにしたので、岐阜城は廃城となり、天守閣なども移築された。

江戸時代の美濃には「美濃郡代」という立派な代官所が笠松にあった。明治になるとそれが笠松県になり、大垣、加納、岩村など8藩が藩となった(高須は明治3年廃藩)。この笠松県の県庁が 7年に交通便利で、江戸時代には尾張藩の商業都市だった岐阜に移ったのが岐阜県庁のルーツだ。

そして、9年に筑摩県から飛騨が加わって現在の県域になった。このころ富山県は石川県と一緒だったが、富山県が独立していたら、飛騨も加わったかもしれない。

岐阜県旧庁舎は最初期の鉄筋コンクリート造の県庁舎だった(一部現存)。現庁舎は南西郊外の藪田南に昭和41年竣工。新庁舎が建設中で令和4年竣工予定。岐阜市役所は昭和41年竣工。

歴代知事の横顔

初代公選知事の武藤嘉門氏 衆議院事務局 – 衆議院事務局『衆議院要覧 大正十三年十二月(乙)』より

初代公選知事の武藤嘉門(1947~58)は、外務大臣や通産大臣をつとめた武藤嘉文の祖父である。名前がよく似ているので、よく間違われるが一字だけ違う。だが、読み方も似ているのでよく混同される。

山県郡の出身だが、各務郡鵜沼の酒造家の養子となった。東京法学院(現中央大学)を卒業したのちに家業を嗣ぎ、県議を経て1918年に代議士に当選、断続的に3期勤めた。戦時中は実業家として活躍したが、1947年の知事公選では、「新しい岐阜県政は岐阜県人の手によって」のスローガンのもと、旧民主党系の支持を受け、77歳の高齢にもかかわらず出馬し、官選知事で自由党や社会党が推す桃井直美を1万4000票差で破って当選した。最初の公選知事のなかで最高齢だったことはいうまでもないし、退任したときは、なんと88歳だった。ちなみに、桃井は、翌年、地元の高知県知事選挙に立候補し当選した。

当選した武藤は、財政健全化を第一として企業経営的手法を取り入れ、国の補助金をあえて積極的には求めず、議会への根回しもしないという手法をとった。驚くべき先進性である。ただ、十分に練られたものではなく、摩擦も大きかったので、一期目の終わりには方向転換せざるを得なかった。その裏には、代議士時代からのライバルである実力者・大野伴睦を無視しては県政が遂行できないという事情もあった。

また、財政支出を抑えるといっても、当時の県財政はさほど苦しい状況にはなく、生まれた剰余金の使い道としての県会議事堂の建設とか、大量の橋の永久橋(コンクリート橋)への掛け替えなど、思いつきという批判を受けることにもなった。

余談だが、武藤は上京するときは一等車を使わなかった。一等車に乗車すると、知り合いに出会って話をしなくてはならないので、それを避けて二等車でゆっくり読書にふけったのだそうだ。

武藤の不出馬を受けた第4回の公選では、武藤の初当選時から実務家として支えた県総務部長の立野信実が社会党と保守の一部の支持を受けて出馬したが、大野伴睦ら自由党に推された松野幸泰(1958~66)が激戦の末に当選した。現職閣僚である棚橋泰文の祖父である。穂積町の農家に生まれ名古屋育英商業を出たあと村議をつとめた。翼賛壮年団で活躍したことから公職追放を受け、夫人を身代わり立候補させて話題になった。

松野幸泰像(瑞穂市役所前 (c)YuyaTamai )

大野伴睦の家老的存在で、1958年の選挙戦では当時の岸首相も来県して強力にプッシュした。だが、この時代に、新幹線の駅が大野の支持する羽島に設けられることになったのに対して松野が岐阜市寄りの「県民案」で反対したことで対立が生じた。

だが、大野は1964年に急死。翌年の選挙では、松野を自民党代議士だった平野三郎(1966~76)が破って大差で当選した。この背景としては、県教祖との鋭い対立があり、社会党も平野を支持したことがあった。なお、松野時代には、県庁が岐阜市中心部から郊外の現在地に移った。また、木曽三川の水を愛知県の工業開発のために開発する是非について、県内の工業化を主張し、また、東海三県合併に反対する松野の姿勢を巡って議論があった。

平野は郡上郡八幡町(現郡上市)の出身で、慶応高等部を中退後、家業である林業などで実業家として活躍し、地元の商工会議所会頭も勤めた。当選した経緯から県内融和を標榜し、教育日本一をめざして予算を増額した。また、この時代に、恵那山トンネルが完成し中央自動車道が開通し、飛騨高山の観光地としての整備が進むなど県東部、北部の発展への基礎が築かれた。

だが、平野は3期目途中の1976年に汚職事件で失職し、岐阜市長だった上松陽助(1977~89)が、保守県政の死守を訴えて当選した。上松は東京帝国大学法学部を卒業後、日鉄を経て応召、戦後は岐阜市役所に入り、1970年に市長に当選していた。

上松の在任中は、東海北陸自動車道が着工され、県内の道路網が充実し、それをどう生かしていくかが課題であった。また、「みどりの連帯社会」のスローガンのもとに治水対策や生活基盤、文化施設の充実が図られた。

梶原拓(1989~2005)は、建設官僚で都市局長から後継者含みの副知事となっていた。続々とスター知事が登場した1980年代に比し、90年代はバブル崩壊による経済不振もあって、一段落した感があり、スター知事不在の時代であったが、そのなかで、全国的にも話題になることが多い存在となった。

とくに熱心だったのが、首都機能移転問題である。東京周辺での地価の異常な値上がり、一極集中の進行などのなかで、東京をそのままにしておいては、問題の解決はおぼつかないという認識が広まった。その最初の口火をきったのは、1987年の東海銀行調査部による名古屋遷都論であり、それに私自身の『「東京集中」が日本を滅ぼす』(講談社)が続き、ほかにも相次いで提言が出された。

そんななかで、東西日本の中間点で日本全体の人口重心でもあるあたりに、ワシントン型の政治都市をという正統派の考えにもっとも沿ったのが梶原による「東濃地域」についての提案であった。この提案は元々、リニア新幹線を前提とし、その通過予定地であることが強みだった。だが、首都移転に本音では反対だったり、首都を北関東・東北方面へ移そうとするグループの巧妙な工作と、リニア新幹線の財政負担を危惧する勢力の合体で、リニア新幹線を当然の前提としないで東京から2時間以内という条件が付けられた。この条件はクリア不可能ではなかったが、リニア新幹線と新首都の相乗効果を狙うという東濃地域の強みを阻害したことは間違いなく、首都機能移転のもっとも現実性の高かったチャンスをとりあえず逃させたのである。

このほか、梶原は大垣などを中心にIT産業の振興を図り、美濃焼の伝統を生かした工芸、文化などの振興にも積極的に取り組んだ。また、全国知事会の会長をつとめ、三位一体改革を実質的なものとするために、「闘う知事会」を標榜し、見事な手腕で地方関係四団体の共同歩調による要求を実現した。

2021年知事選挙の経緯

古田肇・現岐阜県知事(古田氏のFacebookページより引用)

その後継者として選ばれた古田肇(2005~)は、東京大学法学部から1971年に旧通商産業省入りし、ENA(フランス国立行政学院)留学、ニューヨーク・ジェトロ産業調査員を経て、川口外務大臣のもとでの省庁間交流で外務省経済協力局長もつとめた。高校生時代に岐阜国体の最終ランナーをつとめたことなどからも、地元でも早くから将来を嘱望され、村山首相の秘書官をつとめたときには、参議院選挙に「自社さ」与党統一候補にという声も上がったことがあった。国際畑が多いが、会計課長や商務流通審議官をつとめるなど行政実務にも強く、留学中にはフランスの県庁で副知事見習いを勤めたこともある。

ところが、古田の就任ののち間もなく、県庁の裏金問題が噴出した。梶原時代に、県庁内の総点検を実施したところ、大量の裏金が発見されたので、とりあえず、職員組合が保管したままになり、しかも、使い込みもあったというのである。第三者によるプール資金問題検討委員会は、1992年度から2003年度までの12年間の裏金は総額16億9722万1000円であるとし、その返還に梶原前知事を初めとするOBが当たるとともに、知事部局と教育委員会も合わせた県庁の全職員の56.7%にあたる4379人が処分された。

こうした峻厳さや合理主義者であるがゆえの割り切りは一部から不満のたねとなったが、県民の広い支持を集め、これまで4回の選挙では事実上、共産党系候補だけを相手に圧勝を続けてきた。

江崎禎英氏(江崎氏の公式ウェブサイトより)

しかし、今回は、県議会自由民主党のドンといわれる猫田孝岐阜県議が、新型コロナウイルス対策で知事のトップダウンが多かったことなどのために不満を持ち、県庁に出向経験がある、古田の経産省の後輩である、江崎禎英内閣府官房審議官の擁立を図り古田に禅定を迫った。しかし、古田は7人の自民党国会議員のうち、大野泰正以外の6人の支持を固めて立候補を表明した。

そして、経済界も古田につき、県議会は二分されているといったまま、選挙戦に突入している。古田自身はコロナ対策に専念するとして、選挙運動には参加していない。

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