【藤田太陽連載コラム】プロ以外では社会人しか頭にはなかった

1997年夏の秋田代表は石川のいた秋田商だった

【藤田太陽「ライジング・サン」(10)】高校3年生で投手デビューを果たしました。春からの練習試合ではほぼ、点を取られない無双モードでした。それでも簡単に甲子園に行けるほど甘くはありません。最後の夏の大会はノーシードから1回戦で勝利したものの、2回戦負けでした。

当時から打者の練習に関しては高性能なマシンもありましたし、夏の大会では速い球だけでは対応されることもありました。連打や長打はないのですが、四球や失策が絡んで失点というパターンはそこそこありました。

やはり速い球を投げるだけでは試合には勝てません。2回戦を勝ち進んでいれば、その次は金足農業との対戦でした。当時は一番の甲子園候補でした。しかし、前年の秋季大会で優勝していた秋田商が甲子園への切符を手に入れました。

石川雅規(後に青山学院大からヤクルト入り)のいた秋田商です。前年秋に準優勝していた我々、新屋高は藤田太陽もいるし甲子園もあるんじゃないかという空気はありました。金足農業に勝てば先の道が見えている感じもあったのですが、その時点でスキがあったんでしょうね。

最後の夏が終わればその後の進路の話になります。いろいろな大学や企業の方々が学校に来て、監督と話をしていたのを覚えています。希望すれば、だいたいの野球名門校には進学できるとも言っていただきました。

東京六大学、東都リーグ、地元なら東北福祉大などです。見学に行ってみるかとも勧められましたが、その当時の僕はお断りを入れさせていただきました。プロ以外では社会人しか頭になかったんです。

地元のTDK千曲川かJR東日本東北、川崎製鉄千葉(現JFE東日本)の3つしか頭にありませんでした。理由の一つは金属バットを持った大人の社会人を相手に対戦できるということ。その厳しい環境で結果を残し日本代表で日の丸をつけたかったんです。

柔道をやっていた時、国歌演奏をバックに表彰台に立つ選手の姿がすごくカッコ良くて憧れました。国の代表としてプレーしたいという気持ちがとにかく強かったんです。

大学に行くとまた1年生から奴隷のような生活が始まるとイメージしていました。そんなんなら、ちゃんとお給料もらえて、職業としての野球がしたかった。早ければ3年でプロに進むこともできる。それで社会人野球を選びました。プロ入り時に逆指名もできて自分で入団するチームを選べたらいいなとも思っていました。

実際にセレクションを受験したのはJR東日本東北と、川崎製鉄千葉です。どちらにも合格をもらいました。僕の中ではようやくここで、スイッチが変わりました。これまでは地元で自由に野球をやらせてもらってきました。でも、ここからは人生をかけた勝負なんだと。

大学を飛び越えて社会人で野球をやるなら、高いレベルでやらないと意味がない。何度も都市対抗に出場している名門の川崎製鉄千葉を、ここでは選ばせていただきました。全国区のチームであったというのが一番の選んだ理由です。

両親には大学に行けと言われました。今までなら、親に見てもらうために東北地方の大学を選んだかもしれません。でも、その時の自分は違いました。18歳で覚悟を決めて、まだ卒業式の前に千葉に行って練習に参加していました。初めて親元を離れての生活になります。自分なりに気合を入れて実りある野球生活をと意気込んでいましたが、ここでも僕を待っていたのは試練でした。

☆ふじた・たいよう 1979年11月1日、秋田県秋田市出身。秋田県立新屋高から川崎製鉄千葉を経て2000年ドラフト1位(逆指名)で阪神に入団。即戦力として期待を集めたが、右ヒジの故障に悩むなど在籍8年間で5勝。09年途中に西武にトレード移籍。10年には48試合で6勝3敗19ホールドと開花した。13年にヤクルトに移籍し同年限りで現役引退。20年12月8日付で社会人・ロキテクノ富山の監督に就任した。通算156試合、13勝14敗4セーブ、防御率4.07。

© 株式会社東京スポーツ新聞社