A1グランプリは後のさまざまレースに影響を与えたコンセプトの先駆者【サム・コリンズの忘れられない1戦】

 スーパーGTを戦うJAF-GT車両見たさに来日してしまうほどのレース好きで数多くのレースを取材しているイギリス人モータースポーツジャーナリストのサム・コリンズが、その取材活動のなかで記憶に残ったレースを当時の思い出とともに振り返ります。

 前回に引き続き、2005年にイギリス・ブランズハッチで初開催された国別対抗戦『A1グランプリ』を振り返るコリンズのコラム。初開催のレースは大きな可能性を秘めたものでした。

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 観衆は大歓声を上げ、すべてのマシンが始動した。この時点で私はピットからダッシュした。私は人々とおしゃべりをしながらグリッドにマシンが着くのを見届けた後、1コーナーにあるグランドスタンドへ行こうとしたのだ。そこは悪名高い『パドック・ヒル・ベント』がある。このようなレースではプレスルームよりもパドック・ヒルから見る方がいい。

 私は観客として見にくる友人に席を取っておいてもらえるよう頼んでいた。そこへ到着すると、少々汗ばんだ私に彼は冷たいビールを渡してくれた。「僕は仕事中なんだ」と私は不満を漏らしたが、友人は「天気はいいし、これから素晴らしいレースが始まるところだろ?」と指摘した。その通りだ。私はただ楽しむべきだと思い直して受け取ったビールはとても美味しかった。

 パドック・ヒルは非常にトリッキーなコーナーで、ドライバーはほとんど前の見通しがきかない。コーナーに入るところにバンピーな起伏のある丘があり、エイペックスとコーナー出口では急な下り坂になる。ここはよく知られたオーバーテイクスポットだが、大事故の起きるスポットとしても非常に有名だ。その上にあるグランドスタンドに私は座って “インディ”のようなセクション全体を見渡していた。屋根はないが、ここはモーターレースを見るには世界で最高の場所のひとつだ。

 スプリントレースはローリングスタートで始まる。グリッドを埋めた25台の轟音を立てるローラ・グランプリマシンが私が座っている方へ近づいてくるのを見るのは、とても感動的だった。ネルソン・ピケJr.は首位でコーナーを通過し、その後ろをチーム・フランスのアレクサンドル・プレマが続いていく。数回ホイールが接触しているマシンがいたが、全員が無事に第1コーナーを通過していった。

2005年A1GP 第1戦イギリス スプリントレースの1周目でクラッシュによりリタイアを余儀なくされたヨス・フェルスタッペン。

 ドルイド・ベントと呼ばれるヘアピンを抜けるとグラハム・ヒル・ベントがあり、マシンはグランプリ・ループへと消えていく。しかし、オレンジ色のチーム・オランダのヨス・フェルスタッペンだけはチーム・南アフリカのマシンに衝突されてスピンを喫し、レースからリタイアしてしまった。

 1920年代に初めてブランズ・ハッチにはオープンした当時、インディカーが一度レースを行なったこともあり、現在では”インディ・サーキット”と呼ばれているセクションがある。“グランプリ・ループ”は古来からある森のなかを走るトラックの延長部分だったが、そこは滅多に使われることはない。何軒かの民家にとても近いところを走るようになっており、住民はたびたび騒音について不満を訴えてきていた。

 さらに、そこにはグランドスタンドがないため、観戦できる場所にたどり着くには、下草を越えていかなければならない。速いマシンをコースのその場所から見るのは圧巻で、ここではコース際のかなり近いところまで行くことができる。だがそこから見るということは、実際のレースで何が起きているかのヒントにしかならない。それが私がレースデーにインディ・サーキットに終日いた理由だ。

 グランプリ・ループからインディ・サーキットへマシンがふたたび姿を現すと、ピケJr.はチーム・フランスと大きく差を広げていた。またチーム・フランスは3位のマシンとの差を広げており、先頭集団のレースは落ち着いてきたようだった。

 それから数周後、私の前の席で解説を聞いていた女性が大声で「スコット・スピードやウィル・パワーという名前は後でつけたのよ」と言っていた。私の仕事仲間は、それはドライバーの本名なのだと彼女に請け合った。だが彼女は彼のことを信じず、それらが偽名であると確信していた。

 私には彼女がそれを信じて疑わない理由が理解できた。彼らの名前は英語では、ドライバーの名前というよりも、安っぽいコミック本の名前のようだからだ(笑)。しかも、パワーはチーム・オーストラリアから参戦していたし、スピードはチーム・アメリカだった。

 私たちはこの女性と話した。彼女は明らかに国際レースについてほとんど分かっていなかったので、なぜこのレースを見にきたのか聞いてみた。彼女いわく、広告を見て楽しそうだと思ったという。チケットは35ポンド(約4700円)と安かったので、ロンドンから見にきたそうだ。

 たしかにチケット代はプレミアリーグの下位チーム同士の試合か、クリケットの試合くらいの値段かもしれない。そのうえ、良い天気だったので彼女は出かけるのにちょうどいいと思ったという。サーキットへは来たことがなく、前にテレビでF1を観ただけだということだった。A1グランプリは新たなファンを呼び込んだわけだ。

︎エキサイティングなフィーチャーレースも制してピケJr.が2勝

 スプリントレースにはそれほど大きな展開はなかった。ブランズ・ハッチは幅の狭いコースで、リスクを取らずにオーバーテイクをするのは難しい。さらに、スプリントレースの後に控えているフィーチャーレースの開始まではあまり時間もなく、スペアカーもないため、ドライバーたちは誰もリスクを冒したくないように見えた。

 その結果、ポールスタートのピケJr.は余裕でチーム・フランスを下して優勝。観客から注目を浴びていた元イギリスF3選手権チャンピオンのカーがドライブするチーム・グレートブリテンは5位でフィニッシュして大きな歓声が上がった。チーム・ジャパンの福田はポイント圏外の12位でレースを終えた。

 メインのレースはもう少しエキサイティングだったと言えるだろう。ピケJr.がふたたびポールポジションから首位に立ったが、今回はスタンディングスタートだった。グリーンフラッグが振られ、スタートシグナルが消えたがチーム・ニュージーランドはエンジンがかからず、チーム・グレート・ブリテンが順位を上げた。また、チーム・フランスのプレマがストールしたため、チーム・グレート・ブリテンは第1コーナーに差し掛かる前に3位に順位を上げていた。

2005年A1GP 第1戦イギリス フィーチャーレースではスタート直後からクラッシュが多発。

 スタート直後は混乱する展開となった。1周目はチーム・アイルランドがチーム・スイスに衝突し、2台ともリタイア。チーム・レバノンは経験の浅いドライバーがグランプリ・ループでスピンを喫して、あやうく他の4台のマシンを巻き込むところだった。チーム・インドとチーム・インドネシアも最初の1周を完走できず。2周目にはチーム・ポルトガルが、ローラのバッテリーのトラブルによってリタイアを余儀なくされた。スプリントレースで見られたドライバーたちの慎重なアプローチは明らかに消え去っていた。

 コース上はすでにマシンが激減していたが、先頭集団で素晴らしいバトルが繰り広げられていたので、そのことはあまり関係なかった。チーム・グレード・ブリテンのカーは、チーム・オーストラリアと激しく戦っていた。ピケJr.は後ろで2台のマシンが争うなか、リードを広げていく。

 すごいバトルがすぐ下のコースで行われており、私の友人は前の列にいる女性に「これは素晴らしいモーターレースですよ」と話した。私もその意見に同意だ。

 レースの13周目、パドック・ヒルでは大きなドラマが起きた。チーム・レバノンの経験の浅いドライバーであるベシールが、チーム・イタリアのマシンと衝突し、グラベルトラップで派手に反転したのだ。このとき私は別の方向を見ていたので見逃してしまった。群衆の反応から何かが起きたと気づいたくらいだ。ベシールに怪我はなく、彼はリタイアした。またチーム・イタリアも同様にリタイアとなった。

 このクラッシュによってセーフティカーが出動し、トップの3台にピットストップのチャンスが巡ってきた。チーム・グレート・ブリテンのメカニックは素早く作業をしたが、チーム・ブラジルとチーム・オーストラリアのメカニックたちは残念ながら作業が遅かった。

 カーが首位に立つと、大きな歓声が沸いた。ブランズ・ハッチで1976年にジェームス・ハントがニキ・ラウダを追い抜いた時以来の大歓声だったかもしれない。イギリス人ドライバーが、イギリスのエンジンを積んだイギリスのマシンで、ブランズ・ハッチでのグランプリの首位にいる。まるでおとぎ話のようだ。

 だかその喜びも束の間、ピットアウトしてからわずか1周後、まだセーフティカーの後ろを走っていたカーのマシンは突如、コース脇で停止してしまった。バッテリーのトラブルだった。観客たちが落胆の声を上げるなか、カーはリタイアとなってしまった。

 その後、レースは再開され、チーム・オーストラリアが首位に立ったが、チーム・ロシアがスピンを喫したためにセーフティカーが再度出動。再スタートが切られるとピケJr.が首位を奪い、スプリントレースに続いて優勝を飾った。55分間のレースをフィニッシュできたマシンはたった9台だった。ピケJr.と同じ周回にいた福田は8位でフィニッシュし、日本にとって初のA1GPのポイントを獲得した。

レース13周目、チーム・レバノンのマシンがクラッシュ。マシンは反転し、これによりセーフティカーが出動。

︎ウィンターシリーズやオンライン配信、パワーブーストシステムなどを生み出したA1グランプリ

 ブランズ・ハッチのパドックにはふたつのパブがある。そのなかでも“Kentagon”と呼ばれるパブはイギリスのモータースポーツ界では非常に有名で、多くのレース後の大パーティが行われてきた。内部は、フォーミュラ・フォード・フェスティバルを含むブランズ・ハッチで行われた主なレースの優勝者リストが手書きされている。

 誰が書いたのかは知らないが、面白いことに書き手はスペルをよく分かっていなかったようで、ドライバー名には多くのミスがあるのだ。またパブには古いレースの記念品や写真がいっぱい飾られていた。現在は、残念ながらコースを経営するジョナサン・パーマーがすっかり綺麗にしてしまい、多くの古いものが取り除かれてしまったが、私はそれらに真の魅力があったと思っている。

“Kentagon”のテラス席で知り合いのジャーナリストやレース関係者たちとビールを飲みながらA1GPについて話をした。モーターレースの応援で、サッカー場の観客のような応援が見られたのは、誰にとっても初めてのことだった。それは壮観で、レースは素晴らしく、人々はグランプリ・オブ・ネイションズのコンセプト全体に没頭していた。A1GPには素晴らしい将来がある、と我々は確信した。

左から3位サルバドール・デュラン(A1チーム・メキシコ)、優勝したネルソン・ピケJr(A1チーム・ブラジル)、2位のウィル・パワー(A1チーム・オーストラリア)

 A1GPは実際に多くの革新に満ちていた。レースはオンラインで生配信されていた。他のチャンピオンシップがオンラインでレースの配信を始めたのはそれからまる10年も経ってからだ。また、A1GPはウィンターシリーズというコンセプトの先駆者でもある。

 シーズンを秋に始め、冬にかけてレースを開催し、春に終わる。この形は後にフォーミュラEが真似をした。もうひとつフォーミュラE(そしてスーパーフォーミュラ)が真似をしたのは、ドライバーが操作するパワーブーストシステムだ。ブランズ・ハッチではこれがとてもうまく機能していた。

 A1GPは最初の3年で大きな成功を収め、観客動員数は増え、素晴らしいレースをし、多くの新しい国々から関心が寄せられた。実際、チームを参戦させたいナイジェリアの投資家グループが、私にドライバーになるよう依頼してきたぐらいだ。当時、私は国際C級ライセンスとナイジェリアのパスポートを持った唯一の人間だった(笑)。

 私はチーム・レバノンの経験不足のドライバーのようなことになりそうだと分かっていたが、参戦できていたらとても楽しいものになっただろう。私は自分が遅かろうが最下位だろうが気にしない。

 A1GPはその頃には非常に野心的になっていた。ローラのマシンは優れていて、レースでも調子が良かったのに、チャンピオンシップの主催者たちは、新しくフェラーリエンジン搭載のマシンに切り替えることを決めたのだ。より高価なマシンとなったが、レースはうまく行かなくなってしまった。

 一方で、シリーズは古いローラのシャシーを新設されたA2GPチャンピオンシップや、ドライバートレーニングシリーズのアフリカA3GPに参加する国々に割り当てようとしていた。A2GPは、A1GPに参戦したいが、資金や経験のあるドライバーを用意できない国向けのものだ。

 しかし、シリーズは5シーズン目を前に財政破綻してしまう。レースは開催されず、マシンは未払い債務の引き換えに押収された。チーム・ナイジェリアはその年の途中までグリッドに並ぶ予定だったが、投資家がフランチャイズ料を失ったので、私も(A1)グランプリドライバーになるチャンスを失ってしまった。

 今になって振り返ると、たとえ当時財政難だったとしても、A1GPはもっとうまくやれたはずだ。A1GPが続かなかったことを本当に残念に思う。これはモーターレースにおけるもうひとつの、過ぎ去った可能性の物語として後々まで残るだろう。

2005年A1GP 第1戦イギリス

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サム・コリンズ(Sam Collins)
F1のほかWEC世界耐久選手権、GTカーレース、学生フォーミュラなど、幅広いジャンルをカバーするイギリス出身のモータースポーツジャーナリスト。スーパーGTや全日本スーパーフォーミュラ選手権の情報にも精通しており、英語圏向け放送の解説を務めることも。近年はジャーナリストを務めるかたわら、政界にも進出している。

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