長嶋茂雄監督から怒号「篠塚! 打たせろよ!」 コーチ時代に味わった重圧と充実

長きに渡り巨人の主力として活躍した篠塚和典氏【写真:荒川祐史】

1994年を最後に現役を引退、内野守備や打撃コーチを歴任した篠塚氏

巨人屈指の巧打者だった篠塚和典氏は現役時代、類まれな野球センスで活躍。高い打撃技術で安打を量産し、首位打者2度を含め打率3割を7度マークした。8度のリーグ優勝、3度の日本一を経験した。長嶋茂雄監督(当時)の進言もあり、1994年を最後に現役を引退。コーチに転身するまでの話を聞いた。

長嶋茂雄氏(現・巨人終身名誉監督)が初めて日本一となった1994年。ミスターに導かれたようにプロ入りした篠塚氏は19年の現役生活を終えた。第2次政権でも同じユニホームを着て戦えたことが誇りだった。

「他のユニホームを着て、プレーするつもりはありませんでした。辞めたなら一度、野球を外から見たいなと考えていました」

通算19年で1651試合、5572打数、1696安打、92本塁打、628打点。首位打者2度を含め打率3割を7度。生涯打率はなんと.304を記録。偶然にも尊敬する長嶋氏は.305と1厘差の数字だった。

「ミスターとはもう打数(8094打数、2471安打)も違いますから。ただ自分としては嬉しいですよ、ミスターの下にいるっていうのがね。上に行かなくてよかった(笑)。そういう笑い話じゃないですけど、こうやって話題にできますから。ユニホームを脱いだ時期によって変わるので、たまたまです」

日本一になった1994年、巨人は秋季キャンプを行っていた。篠塚氏はゆっくりと時間を過ごしていたが、宮崎からの電話で状況が一変した。

「監督から『どうしてんだー?』と(笑)。そこで内野守備走塁コーチの打診を受けました。来年、コーチで手伝ってくれないか、と。相談する人もいるだろうから、一週間は待つよと言っていただけたのですが、僕は即答で『よろしくお願いします』と。一週間待つという選択肢は全く自分にはなかったですね。なんとかお手伝いしたいという気持ちでした」

第二の野球人生のスタートとなった。前年まで現役だったとあり、選手たちとのコミュニケーションに関しては問題なく進んだ。

「一緒にやってきた選手ですし、良いことも悪いこともわかってるんで、あんまり苦労っていうことはなかったですけどね。担当が守備だったというのはありましたけど」

緒方耕一氏、元木大介氏、仁志敏久氏…タイプの違う3選手が巨人のセカンドを担った。

ミスターからお叱りを受け、内心は「俺が打ってしまえば打てるのに…」と思うことも

「選手を教える、育てていくという楽しみはありましたよね。ただ、思ったように育たないなっていう部分もありました。やっぱりコーチとしては、何か足らなかったんだろう、最初は思ったりもしました。それから、この選手には、どういうことを言ったらいいのかとか、どういうものをやらせたらいいのかとコーチなりの引き出しを増やしていこうと思いました」

1997年からは打撃コーチに就任した。2年間務めた内野守備走塁コーチとはプレッシャーの感じ方が多少、違ったと言う。

「バッティングコーチをやってるときの方が大変でした(苦笑)。チームが打てないと長嶋監督にベンチの中でもよく言われましたよ。『篠塚! 打たせろよ!」と。内心では『俺が打つわけじゃないのに……俺が打ってしまえば打てるんですけど……』って思ったり。打撃は浮き沈みもある。打てないと自分の責任です。すごい役目だなっていうのは改めて感じました」

相手投手に手も足も出ない時、後一本が出ずに負けてしまった時、打撃部門のコーチやスコアラーはミスターの怒りに触れた。それでも、若い選手に一本、ヒットが出れば嬉しかった。

「大変な職業ですけど、楽しみの方が多い職場だと思います。1人で十何人も選手を見るわけで……。レギュラークラスはワンポイントぐらいで済むけれど、控えや若い選手にはそうはいかない。代打に行ったときに、この選手の力を十分に出せるかどうかっていうのを考える。自分なんかは、打撃はシンプルに考えていたので、その単純さでモノを言っても大丈夫なのかなと思ったりもしましたが、どんどんとデータもいろいろあるので、それを重視して、選手を迷わせないようにしていました」

内野守備、そして打撃コーチでも長嶋政権を支えた篠塚氏。勝負にかける熱はミスターから感じていた。救われたこともあった。

次回はベースコーチャーを務めていた時に「助けられた」ことをお届けする。(Full-Count編集部)

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