「ラソーダ大学」に入学するために必要だったものとは

故トミー・ラソーダ氏

【越智正典 ネット裏】「私の体にはドジャーブルーの血が流れている」

この名セリフで日本のファンにもよく知られているLAドジャースの監督、トミー・ラソーダが1月7日夜、亡くなった。ペンシルべニア州の生まれ。93歳だった。

現役時代はピッチャーで引退後、スカウト、マイナーリーグの監督。そのあと、1976年から1996年に勇退するまで21年間、ドジャースの監督を務め、1599勝。ナショナル・リーグで優勝4度。2度のワールドチャンピオンに輝いた。この時代、ベロビーチキャンプでは、練習が終わると選手やコーチの子どもにノック。夕焼けがキレイであった。ペナントレースが始まる。

「トミー!」

ドジャースタジアムでスタンドのファンから声がかかると、手を振り「よく来たね。こんど電話をくれれば、いい席を取っておくよ」。
1997年、野球の殿堂入りをしている。

野球発祥地と聞くがNYからハドソン河をさかのぼって行くと、殿堂の町クーパーズタウンは静かで美しい町だ。春がくると街には花籠…。話が少しそれるが、むこうの殿堂博物館に日本の野球関係者の記念がいちばんはじめに飾られたのは、阪神タイガースの「リトルショートストップ」牛若丸・吉田義男のサインボールだと記憶している…。

本紙デスクから「トミー」の逝去を知らされたとき、私は1972年、ハワイのホノルルで開かれた、マイナーリーグの世界選手権大会「コダッククラシックベースボール」トーナメントのベネズエラとの決勝戦を見に行った日が、昨日のことのように思い出された。

ラソーダはこのとき、ドジャース傘下の3Aアルバカーキ(ニューメキシコ州)の監督であったが、大会会場、ハワイ大学のグラウンドに着くと、左腕からいい球を繰り出し、試合前のバッティング練習に投げていた。投げながらマウンドで明るく大きな声で「わがラソーダ大学は犠牲心と団結心があれば誰でも入学できる」。

「大学だからもちろん授業料を取る。1球につき5セントだッ。高くない。メジャーに進めばYouたちは大金を手にすることができる。さあー、打て!」

グラウンド周囲に咲いていた白いプルメリアの花々がよりキレイに見えた。ラソーダとスカウト部長アル・キャンパニスとの陰のコンビネーションも見事だった。

練習が終わり、試合開始が近づくと、ラソーダはバッターボックスを指差し、若者たちに叫ぶように言うのであった。

「バッターボックスは打つところではない。必ずここに還ってくると心に誓って立つところだ。これがラソーダ大学の校訓である。レッツゴー」

彼は日本の枝豆が大好きだった。ゆでたてに塩をふり、一籠、二籠、三籠…。止まらなかった。これが“オードブル”で、それからロサンゼルスの日本人街「リトルトーキョー」の「レストラン・オブトーキョー」で江戸前の握り鮨を87貫。たのしかった。合掌。=敬称略=

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