中日に受け継がれる「背番号1」の誇り 福留が感じてきた“重み”と京田が担う“使命”

高木守道氏のお別れ会に参列した福留孝介(左)と京田陽太【写真:荒川祐史】

高木氏と同じ背番号1の京田「恥ずかしくないプレーをしていかないと」

昨年1月に亡くなった中日OBで元監督の高木守道氏のお別れ会が26日、名古屋市内で開かれた。招待された関係者ら225人が参列。「史上最高の二塁手」や「ミスタードラゴンズ」と呼ばれた偉大な存在を偲んだ。高木氏と同じ背番号1を入団時から背負い、今季14年ぶりに古巣復帰を果たした福留孝介外野手も姿を見せ、あらためてその重みを振り返った。

高木氏は県立岐阜商から1960年に地元の中日に入団。プロ4年目の1963年から背番号1をつけ、コーチ時代の1982年まで背負った。絵に描いたような三拍子揃った二塁手で、特に守備では遊撃への「バックトス」は名人芸の域に。走っては3度の盗塁王。さらに打っては1978年に球団史上初の2000安打を達成した。実働21年で通算2282試合出場。打率.272、2274安打、236本塁打、813打点、369盗塁を誇った。

プロ入りした1999年からメジャーに移籍する2007年まで中日で背番号1をつけた福留。高木氏が中日で監督を務めたのは1992年からの4年間と、2012年からの2年間のため、一緒にプレーする機会はなかった。それでも、大先輩と同じ番号を背負った身として「背番号1を汚さないようにと、ずっとやってきた」と噛み締める。

日本球界に戻った福留が阪神入りした2013年。当時敵将だった高木氏を「闘志を前面に出して、熱くなっているというのはベンチから見ていてもよく分かった」と思い出す。口数の多くない普段から一転、時に激昂する姿は“瞬間湯沸かし器”と呼ばれたほどだった。

その背番号1は現在、選手会長を務める遊撃のレギュラー・京田陽太内野手が担う。祭壇に手を合わせ「今年は必ず優勝しますと伝えました」。入団時の背番号51から変更が決まった2018年オフ、OB会で高木氏に報告すると「おお、そうか。頑張れよ」と声をかけてもらった記憶が蘇る。

高木氏の現役時代は知らなくても、残した数字を見れば身震いするほど。「同じ背番号として恥ずかしくないプレーをしていかないと。自分が1番好きな番号でもありますし、背番号1を長くつけられる選手になっていきたいです」と背筋を正す。

京田に対し、福留は「背番号1を汚さないようにという気持ちをもっともっと強く持ってもらえたら」と期待を込めて発破をかける。生半可では背負えない数字なのは、つけた選手だから余計に分かる。半世紀以上がたった今も、その重みと誇りは脈々と受け継がれている。(小西亮 / Ryo Konishi)

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