巨人からメジャーへの道を開いた 上原「6年の激闘」

オリオールズとの契約を終え、帰国した上原(2009年1月16日)

【球界平成裏面史 上原編】今ではNPBからの海外移籍が世間一般にも好意的に捉えられるようになった。若者の挑戦を後押ししよう、海の向こうで夢を追いかける求道者を見守ろう、そんな思いからだろう。

長らくポスティングでの米大リーグ移籍を容認してこなかった巨人も変わってきた。元号が令和になってから、山口俊が同制度を利用してブルージェイズに移籍。このオフには移籍こそ実現しなかったものの、エースの菅野智之がポスティングを利用してメジャーを目指した。平成時代の巨人では考えられないことだった。

そんな時代の流れを語る上で、最も“災難”だったのが平成11年(1999年)に逆指名で巨人に入団した上原浩治だろう。大阪体育大学3年時の平成9年に日本代表として日米大学野球やインターコンチネンタルカップで世界を相手に好投したころからメジャー球団の目にも留まり、本人もメジャー志向。最終的に巨人を選んだが、エンゼルスも最後まで争奪戦に加わっていた。

上原は1年目に20勝をマーク。最多勝、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率の投手4冠に輝いて一気に全国区のスターとなった。その後、故障などありつつも実績を重ねた。4年目の平成14年には目標のシーズン200イニングをクリア。17勝で2度目の最多勝のタイトルを手にする活躍ぶりで、就任1年目だった原辰徳監督のリーグV&日本一に貢献した。

ただ、この年のオフに上原は夢から遠ざかることになる。生え抜きの主砲・松井秀喜が海外FA権を行使してヤンキースに移籍してしまったからだ。松井が巨人を去るにあたり「裏切り者と言われるかもしれませんが」と発言したことは今も語り草になっているが、これを機に球団側も危機感を抱いたに違いない。4番に続いてエースが流出するような事態は何としても避けたかった。

そう思わせる事象が平成15年11月に起こる。公には巨人史上初の代理人交渉となった上原の契約更改交渉の席でのことだった。

年俸交渉に関しては代理人との下交渉もあり、スムーズに決着。球団側と直接の金銭交渉を避けたかった上原は「満足です」と話した。ただ、その後の会見で三山秀昭代表は「弁護士会登録番号などを文書で通知する行為がなされていない。代理人の手続きに瑕疵(かし)があったので、これは代理人交渉ではない」と否定。現場にいた報道陣も騒然となった。

こんな調子で上原のメジャー挑戦は球団に認めてもらえなかった。平成16年オフにポスティングでのメジャー移籍を直訴するも、球団側は断固拒否。意見の衝突は毎年のように繰り返され、夢の実現は海外FA権を取得する平成21年まで待つことになった。

現在の上原はツイッターで自らの考えを積極的に発信している。

後輩である菅野のポスティングによるメジャー挑戦の話題には「時代の流れかぁ…」とつぶやき「自分がポスティングを要望した時は、メディアからのすげぇ書かれ方、叩かれ方したんだけど、今の選手たちは肯定的なことだもんなぁ」と実感のこもった言葉をつづった。

実際に、上原からこう言われたことがあった。

「なんでこんな書き方するん? もう、そっとしといてよ」。今でこそ笑って振り返ることもできるが、当時はこたえた。現在のG戦士には上原の闘いがあったからこそ、道が開けたということを忘れないでほしい。

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