1999年1月31日 ジャイアント馬場力尽く 「持ってあと数時間」半日以上戦っていた

「不滅」のジャイアント馬場に運命の日が…(写真は1974年12月5日、日大講堂)

【ジャイアント馬場が死んだ日「空白の27時間」(3)】和田氏が最後に言葉を交わした翌日(1999年1月24日)から、馬場さんの容体は急変する。意識はだんだん遠のいていき、口からは言葉も出なくなった。集中治療室と病室を行き来する日が続いた。この時点でも本当の病名を知っているのは元子さんだけだった。そして、運命の日が訪れる。

1月31日朝。担当の医師から「持ってあと数時間です」との言葉があった。しかし馬場さんは人並み外れて心臓が強かったため、そこから半日以上も持ちこたえた。そして夕方。病室のベッド横で馬場さんへ必死に声をかけ続けていた6人に、再び医師から通達があった。

薬で延命はできます。ただし呼吸をしているだけの植物的な状態になります。どうしますか――そんな主旨の言葉だった。その瞬間の模様を和田氏はこう振り返る。

「俺と龍は元子さんの意思が一番という考えだった。元子さんは『馬場さん、頑張ったよね。かわいそうだから、もうゆっくりさせてあげましょう』って。ところが馬場さんの姪2人が『私たちは血がつながっているんです。馬場さんは死にません!』って泣き始めちゃったんだよね。いつもは静かな人たちだったのに。それを聞いた元子さんは『私の旦那さんです!』って言い返した。その時だけは病室に緊張感が走った」

結局、同日午後4時4分、馬場さんは天に召された。だがその直後、病室に泣き声はなかった。医師からの「しばらくは温かいから触ってください」との言葉を受けると、6人が腕、顔、足などをさすり「馬場さんお疲れさまでした…」と声をかけ続けた。元子さんはイスの上に立ち、高い位置から「馬場さん、馬場さん。ほら、馬場さんがこっち見てるよ」と手を振っていた。和田氏は腕を握り「ありがとうございました。お疲れました…」とお別れを告げた。

2018年4月に元子さんをみとった姪の緒方理咲子氏はこう語る。「私も病室につきっきりだったのですが、おば(元子さん)から『私の着替えを取りに行って』と頼まれ、自宅で着替えを用意している時に『今、亡くなりました。馬場さんが戻れるようにお布団を用意してちょうだい』と連絡があったんです。感情が出る前に、自宅に戻られるなら落ち度がないように用意しなければ、という思いで頭がいっぱいでした」

ここから難題が待ち受けていた。ひっそりと密葬を済ませてから、公に発表したいというのが元子さんの意向だった。自宅に戻った後は、密葬まで徒歩5分の距離にある旧知のお寺が一時遺体を預かってくれることも決まっていた。

しかし誰にも知られず、遺体を東京・港区の自宅に運ぶ作業は容易ではない。そのため6人は日が暮れるのを待った。ようやく行動に移せたのは死後から約2時間後だった。

遺体をストレッチャーに乗せ、和田氏が運転する車に乗せる。しかしエレベーターで階下へ下りる瞬間、病院内の数人に目撃されてしまう。

「後で分かったことなんだけど、インターンの人が見つけてネットの掲示板に『馬場さんが亡くなった』と書き込んだらしいんだよね。まあ当時は今みたいな(SNSが発達した)状況じゃないから、いきなり大騒ぎにはならなかったけど、まあ少しずつ広まるよね」(和田氏)

ここで当時、神奈川・横浜の全日本プロレス合宿所で生活していた4人の若手選手が自宅に呼ばれた。「馬場さんが退院したから手伝いに来てくれ」という和田氏の言葉を受けて、4人は1台の車で自宅へ急いだ。

自宅1階に到着すると車の中には馬場さんの遺体があった。退院したものと信じていた4人の若者は絶句した。声を失う4人の前で、和田氏は「申し訳ない。今日だけは伏せておいてくれ」と頭を下げた。

そして和田氏、仲田氏、4人の若者で9階の自宅まで階段をゆっくり上がった。真冬の凍りつくような寒さ。吐く息が白い。腕と足が震える。誰もが無言だ。時折、馬場さんの体はストレッチャーから落ちそうになったが、何とか自宅まで無事運ぶことができた。

4人のうちの1人は後に「とにかく落とさないよう、ぶつけないようにという考えしかなかった。何の感情も持つ余裕はなかった。それほど突然だったんです」と語っている。「あんなにしんどい思いをした記憶はない。重くて腕がちぎれそうだし、うそをついた後ろめたさもあった。9階に到着した時は心底ほっとしました」と和田氏は明かす。

しかし、事態はとんでもない大騒動に発展する。=続く=(運動二部・平塚雅人)

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