「村上春樹を読む」(112)ゴリラを見習ってほしい 「ドーナツ」と「無」

講談社文庫版「羊男のクリスマス」

 みなさん、2021年をどのようにして、迎えられましたか。

 村上春樹のファンの人たちなら、大晦日から、元旦にかけて放送されたラジオ番組「村上RADIO」の「年越しスペシャル~牛坂21~」を聴きながら、新しい年を迎えた人も多かったのではないかと思います。

 京都からの生放送。日ごろ、夜はとても早く寝るという村上春樹が、深夜、年をまたいで生放送するというのも驚きでした。

 ゲストにはノーベル医学生理学賞を受けた京大教授の山中伸弥さんと、京大前総長・日本学術会議前会長の山際寿一さんの2人という豪華版でした。

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 その山際寿一さんのゴリラ世界とサル世界の違いについての話が面白かったです。

 前回2人が会ったのは、昨年の9月30日だそうで、その日が京大総長と日本学術会議の会長を辞めた日だったそうです。

 その日の山際寿一さんの顔が、元気で若々しい顔になっていたように見えたので「よっぽど嫌だったんだなぁと思った」と村上春樹が話していました。

 山際寿一さんは京大総長6年、日本学術会議会長3年だそうです。山際寿一さんは「まったく向いていなかった」そうですが、「両方ともゴリラになったつもりでやれば何とかなるか」と思って、務めてきたようです。

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 そのゴリラのリーダーになるべき素質には「背中で語る」「愛嬌がある」「運が良さそうに見える」……などがあるのだそうです。その魅力に雌と子ども付いてくるのです。山際寿一さんは、そういうことをゴリラに学んだそうです。

 山際寿一さんによると、今の政治はサル的になり、さらにチンパンジー的になっているそうです。つまりサルの世界は、俺は強いんだという力関係、ゴリラのように“人格”は関係ない社会だそうです。

 でもゴリラはみんなから押しあげられる社会。だからリーダーも気をつかって、気を配って、子どもの面倒も見なくてはいけない。そうでないとついてこない。サルは雌が生涯その集団で老いる。でもゴリラでは、嫌だったら、雌が出ていってしまう社会だそうです。

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 日本学術会議が半年をかけて選んだ新会員候補のうち6人を任命拒否した問題については、それを知って、山際寿一さんは「腰を抜かすほどびっくりした」そうです。

 菅義偉総理に「じゃ、理由は何ですか? とお聞きしたわけですよ。『理由は言えない』という。“問答無用”だというわけでしょ、これが民主主義国家かと思いましたよ」と話していました。

 それは、力で抑えるサルの政治になっているということだそうです。そして派閥政治になっていて、それはチンパンジーの政治で、もうちょっとゴリラを見習ってほしいと言う。ゴリラを見習えば、ちゃんと平和な政治に戻ると語っていました。

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 ゴリラが胸を掌で叩く、ドラミングの山際寿一さんの録音も披露。自己主張と、群れを率いて、前進するぞという合図だそうです。

 「いまの民主主義はいい政治なんですよ。だから護らなくてはいけない。ゴリラのように、行くぞと、胸を叩いた後はみんなの様子をうかがって、みんなの言う通りに動くことをしないといけないんですよ」

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 村上春樹も、気に入らない意見を言う人を抹殺したスターリン、ヒットラー、そして本を焼いて、学者を埋めてしまった秦の始皇帝の「焚書坑儒」の例も出して、「作家もたぶん埋めちゃわられますね」と笑っていました。

 山際寿一さんは「マイナーの意見、反対の意見も聞きながら、それこそ、菅総理がおっしゃるように、『総合的に俯瞰的に』世の中を判断する必要があると思う」とも語っていました。

 私も反対意見も呑み込むぐらいの度量の深さ、大きさを政治家に望みます。そして、政治の世界ばかりではありませんが、日本人全体が反対意見に耳を貸さなくなっているように感じています。私も例外ではないと思うので、反対の考えの人の声に耳を傾けるようにしたいと考えています。

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 そして、山際寿一さんの話を聴きながら、村上春樹の文学世界にも響き合うものがあると思いました。

 本来的に人間は個人的な感覚、個人的な価値観をそれぞれに持っているはずなのに、その1人1人の個性を許さず、1つの価値観から、全ての人びとを支配しようとしてきたのが、近代日本の姿でした。

 そして、その1人1人の個性を許さない、1つの視点(価値観)から支配する体制が行き着いたところが、戦争でした。

 その近代日本の問題を書き続けてきたのが、村上春樹だと思います。村上春樹の小説は、人間が本来持っている個性を大切に、そこから社会の再生を願うものとして、書かれていると思います。

 山際寿一さんと村上春樹のトークにも、そういう多様な価値観、個性的な生き方を認めるという社会の大切さの考えが語られているのだと思いました。単に社会的、時事的なことに対して、村上春樹が語っているのではなく、村上春樹がデビュー以来考えてきたことが、反映しているトークだと思いました。

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 さて、これでは「年越しスペシャル~牛坂21~」の紹介だけで終わってしまいますね。

 半年間、この「村上春樹を読む」の中で書いておきたいなぁと思っていることがあるので、そのことを書きたいと思います。

 昨年末、『村上春樹の動物誌』という早稲田新書を刊行したことは何回か、このコラムでも紹介しています。村上春樹作品に登場する多くの動物は何を象徴しているかについて、動物側から読んだ村上春樹論です。

 その中で『村上春樹の動物誌』より『村上春樹の食物誌』という本に収録したほうがいいかな……ということを考えた章もいくつかありました。

 もちろん、村上春樹の愛読者はよく知っていることですが、村上春樹作品の中には食べ物の話、飲み物の話がたくさん出てきます。その食べ物が何を象徴しているのか。そんなことを考えたくなる食べ物があるのです。

 その代表的な食べ物の1つが「ドーナツ」です。

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 昨年5月22日に「村上RADIO」で、コロナ時代を生きる人たちに向けた「村上RADIO ステイホームスペシャル~明るいあしたを迎えるための音楽」が放送されましたが、そのホームページに番組のリスナーからのメッセージと、それに対する村上春樹のコメントが掲載されています。

 この中に<リスナーからのメッセージ>50代・男性というものにドーナツのことが出てくるのです。

 「休業要請のため、2週間ショッピングセンター内のドーナツ・ショップを休店していました。不要不急かといわれると、別に食べなくても、自粛生活には支障はないですよね、ドーナツは。ドーナツの穴だけでもショーケースに並べられたら、面白い『無』の陳列になったかもしれません。今は時間短縮ながら、営業を再開し、ドーナツ作って、仕事終わりにビールを飲んでいます。小確幸です」

 それに対する<村上さんのコメント>は

 「ドーナツ、たとえ何があろうと、何が起ころうと、世の中には絶対に必要なものですよね。ドーナツ本体ももちろん素敵ですけど、『ドーナツの穴』という無の比喩も社会には欠かせません。ドーナツはいろんな意味で、世界を癒やします。がんばってドーナツを作り続けてください。僕は常に、ドーナツ・ショップの味方です」というものでした。

 ちなみに「小確幸」とは「小さいけど、確かな幸福」を単語化した村上春樹の造語です。

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 この「村上RADIO」リスナーの人はドーナツ作りを仕事にしている人かと思いますが、『村上さんのところ』(2015年)という読者とのメールのやりとりの本にも「33年間、仕事としてドーナツを作っている」「瀬戸内海の羊男、男性、53歳、飲食業」との人が出てきます。

 そのメールには「毎日ずいぶんたくさんのドーナツの穴を作っておられるのでしょうね。そんなにたくさんの無(rien)を日々つくりだすって、どんな気持ちがするものなのでしょう? ちょっと知りたいような気がします。お仕事がんばってください」と答えています。「rien」はフランス語で、英語の nothing に相当する言葉です。

 今回の「村上春樹を読む」では「ドーナツ本体ももちろん素敵ですけど、『ドーナツの穴』という無の比喩も社会には欠かせません」「毎日ずいぶんたくさんのドーナツの穴を作っておられるのでしょうね。そんなにたくさんの無(rien)を日々つくりだすって、どんな気持ちがするものなのでしょう?」という問題を考えてみたいと思います。

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 「ドーナツ」が、村上春樹作品にとって非常に大切なものであることは、たくさんの作品に登場することからもわかります。

 ドーナツ・ショップとの関係が出てくる村上春樹作品というと、佐々木マキさんの絵がたくさん入った『羊男のクリスマス』(1985年)があります。

 この本に出てくる「羊男」の働き先は近所のドーナツ・ショップなのです。その「羊男」は作曲家でもあって、夏の盛りのある日、「羊男協会」からクリスマスのための音楽の作曲を依頼されます。依頼に来た男によると「毎年音楽的才能に恵まれた羊男さんを一人選んで、聖羊上人(せいひつじしょうにん)様をお慰めするための音楽を作曲していただき、それをクリスマスの日に演奏していただくことになっているのですが、今年はめでたくあなたが選ばれた」というのです。

 デビュー作『風の歌を聴け』(1979年)の元々のタイトルが『Happy Birthday and White Christmas』だったそうですから、「クリスマスの日」に村上春樹はこだわりがあるのでしょう。

 でも羊男の作曲はなかなか進みません。約束した音楽は1小節もできていないのです。困った羊男は「シナモン・ドーナツ」をおみやげに持って、羊博士の家に相談に行くと、羊博士は「呪(のろ)われておるんじゃよ」と言うのです。呪いの理由は昨年のクリスマス・イブにドーナツを食べたからなのだそうです。

 クリスマス・イブは聖羊上人様が「穴に落ちて亡くなられたという神聖な日」でもあるので、この日は穴のあいた食物を食べてはいけないというのが羊男界の掟なんだそうです。その日、ドーナツを食べてしまった羊男は掟破りの呪いで作曲ができないのです。

 その呪いをとくには「君自身も穴に落ちることだ」と羊博士は話します。

 その穴はトネリコの木で作ったシャベルで、掘らなくてはだめだとも言います。トネリコの木は『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(1985年)にも出てくる木で、北欧神話、ゲルマン神話では世界を支える世界樹でもあります。

 このように『羊男のクリスマス』はクリスマス・イブの日、羊男がトネリコの木のシャベルで掘った穴に落ち、深い穴の世界を巡るとても楽しい物語です。ここに「ドーナツ」と「穴」の関係が典型的に描かれていると思います。

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 そして、このドーナツのことは、本当にたくさんの村上春樹作品に出てくるのです。

 例えば『羊をめぐる冒険』(1982年)では冒険への出発点となる、羊の写真を見ていろいろ考える場面で「ドーナツの穴と同じことだ。ドーナツの穴を空白として捉えるか、あるいは存在として捉えるかはあくまで形而上的な問題であって、それでドーナツの味が少しなりとも変るわけではないのだ」と記されています。

 『ダンス・ダンス・ダンス』(1988年)にも、何回か「ドーナツ」のことが出てきます。朝、宿泊している札幌の「ドルフィン・ホテル」から出て、新聞を買ってホテルの近くの「ダンキン・ドーナツに入り、プレイン・マフィンを二つ食べ、大きなカップにコーヒーを二杯飲んだ。ホテルの朝食なんて一日で飽きる。ダンキン・ドーナツがいちばんだ。安いし、コーヒーもおかわりできる。

 次にタクシーを拾って図書館に行った。札幌でいちばん大きい図書館に行ってくれと言うとちゃんと連れていってくれた」とあります。

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 もう1つ例を挙げると、『ねじまき鳥クロニクル』(第1部、第2部1994年。第3部1995年)です。その第2部の終わりのほうに、主人公の「僕」が「ダンキン・ドーナツでドーナツとコーヒーを買い、それを昼食がわりにして」、新宿西口の広場のベンチに座って、通行人を何日も何日も眺める場面があります。

 そして「第3部」の冒頭近くには、「前と同じように近くのダンキン・ドーナツでコーヒーとドーナツを買い、広場のベンチに座って食べた。そして目の前を通り過ぎていく人々の顔をただじっと眺めた」とあります。

 つまり『羊をめぐる冒険』『ダンス・ダンス・ダンス』『ねじまき鳥クロニクル』に出てくるドーナツはたまたまではなく、意味を持って書かれているということです。

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 私の考えを簡単に書いてみたいのですが、まず第1の意味は、ドーナツの「穴」が「異界」への入り口となっていることだと思います。

 『羊をめぐる冒険』では、「羊」の写真に導かれるように、「僕」は北海道へ<背中に星の印を持つ羊>を探しに旅立ちます。その「羊」について「ドーナツの穴と同じことだ」と「僕」は考えているのです。

 『ダンス・ダンス・ダンス』では、ホテル近くの「ダンキン・ドーナツ」に入って、「プレイン・マフィンを二つ食べ、大きなカップにコーヒーを二杯飲んだ」後、タクシーで図書館に向かっています。

 四国・高松の甲村記念図書館を舞台にした『海辺のカフカ』(2002年)や羊男やドーナツが登場する中編「図書館奇譚」がよく表していますが、「図書館」は村上春樹作品にとって「異界」の場所です。その「異界」=「図書館」への入り口として、「ダンキン・ドーナツ」があるのだと思います。

 『ねじまき鳥クロニクル』の「僕」も「ダンキン・ドーナツでドーナツとコーヒーを買い、それを昼食がわりにして」、新宿西口の広場のベンチに座って、通行人を何日も何日も眺めることから、後に作中「赤坂ナツメグ」と名づけられる女性と出会っています。その「赤坂ナツメグ」と出会うことで、「僕」は「異界」に入り、闇の中で綿谷ノボルとの対決の場面に進んでいくのです。

 「赤坂ナツメグ」の息子「赤坂シナモン」という名づけは、おそらくドーナツの「シナモン・リング」からではないかと、私は推察しております。

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 そして、主人公の「僕」が入っていく「異界」も単なるあの世、この世ならざる場所ということではなく、歴史意識や時代認識を表していることも大切かと思います。

 『羊をめぐる冒険』の「僕」が向かった北海道の「羊」は日露戦争や旧満州と繋がった動物でした。その『羊をめぐる冒険』の続編的な作品が『ダンス・ダンス・ダンス』ですし、『ねじまき鳥クロニクル』はノモンハン事件や日中戦争と繋がった物語です。

 『ねじまき鳥クロニクル』(第3部)には「羊を数える、輪の中心にあるもの」という章がありますが、その章には「すべては輪のように繋がり、その輪の中心にあるのは戦前の満州であり、中国大陸であり、昭和十四年のノモンハンでの戦争だった」とあります。ここにも私は「ドーナツ」のシナモン・リングで繋がるようなものを感じます。その輪の中心にある歴史の「穴」に主人公が身を投じることと、「ドーナツの穴」とに繋がるものを感じるのです。

 つまり「『ドーナツの穴』という無の比喩」「ドーナツの穴」の「無(rien)」とは、まず村上春樹の歴史意識や時代認識と繋がった「異界」としての世界としてあると思います。

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 そして、大橋歩さんの絵とともに書かれた村上春樹のエッセイ集『村上ラヂオ』(2001年)には「ドーナッツ」というエッセイがありますが、そこには「現代社会においてドーナッツというのは、ただ単に真ん中に穴のあいた一個の揚げ菓子であるに留まらず、『ドーナッツ的なる』諸要素を総合し、リング状に集結するひとつの構造にまでその存在性を止揚されているのではあるまいか…」と記されています。

 ここにも、強い村上春樹のドーナツへのこだわりが表明されていますが、そこに「ドーナッツ的なる『諸要素』」とあるので、いくつかの要素がドーナツには込められていると村上春樹は考えているわけです。「歴史意識」「時代認識」を反映した「異界」という意味の他にも、ドーナツの意味が込められているということですね。

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 そこで、私が考える「ドーナッツ的なる『諸要素』」の他の1つは『若い読者のための短編小説案内』(1997年)で書かれたことに関係しています。

 この本は村上春樹が「第三の新人」の作家らの作品を取り上げて、その作品世界の成り立ちの特徴を解説した本ですが、その吉行淳之介、小島信夫、安岡章太郎、庄野潤三らの作家の特徴を紹介する絵に「ドーナツ形」の絵がついているのです。

 同書の中で、人間的存在について「自己(セルフ)は外界と自我(エゴ)に挟み込まれて、その両方からの力を常に等圧的に受けている。それが等圧であることによって、僕らはある意味で正気を保っている」と村上春樹は説明しています。

 外界と内側の自我(エゴ)に挟み込まれて、等圧的にドーナツ状になっているのが自己(セルフ)だ、としているのです。リングドーナツを頭に描いてもらえばいいのですが、リングドーナツの部分が自己(セルフ)です。

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 そして、それらの作家たちの紹介を通して、伝わってくるのは、外界と自我(エゴ)を常に意識しながら、自己(セルフ)を考え続けてきた村上春樹という作家の姿です。村上春樹は「自我の表現」ということが嫌いな作家です。人間が各自持つエゴというものと闘ってきた作家だと思います。

 そして、これをドーナツ形の文学論として、眺めてみると、村上春樹は自我(エゴ)の部分が、ドーナツの「穴」のように「無」となっていることです。

 『若い読者のための短編小説案内』にも、次のように書かれています。ちょっと長いですが、ドーナツ論としては大切な部分なので紹介してみます。

 「僕はこれらの作家が小説を作り上げる上で、自分の自我(エゴ)と自己(セルフ)の関係をどのように位置づけてやってきたか、ということを中心的な論題に据えて、それを縦糸に作品を読んでいくことにしました。それはある意味では僕自身の創作上の大きな命題でもあったからですし、またその『自我表現』の問題こそが、僕を日本文学から長い間遠ざけていたいちばんの要因ではあるまいかと、薄々ではあるけれど以前から感じていたからです」

 できたら、『若い読者のための短編小説案内』を手にとって、その村上春樹が描いたドーナツ形の図解を見てほしいのですが、その「自我」の部分が、ドーナツの「穴」の部分となっています。

 「僕らは――つまり小説家はということですが――自我というものに嫌でも向かい合わなくてはならない。それもできる限り誠実に向かい合わなくはならない。それが文学の、あるいはブンガクの職務です」とも書かれているのですが、その「自我」の重要さも十分承知していたうえで、その「自我」を「穴」に棄てるような小説を目指しているように感じるのです。「ブンガクの職務です」と記していることからも、「自我」と、そのまま向き合うという意味ではないと思います。

 ですから、内側の自我(エゴ)を限りなくゼロにすることが、「ドーナッツ的なる『諸要素』」の1つなのではないかと、私は考えているのです。

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 「私たち人間存在の中心は無なのよ。何もない、ゼロなのよ。どうしてあなたはその空白をしっかり見据えようとしないの? どうして周辺部分にばかり目がいくの?」

 安西水丸さんの絵とコラボした『村上朝日堂超短篇小説 夜のくもざる』(1995年)という本にも「ドーナツ化」と「ドーナツ、再び」という作品があり、その「ドーナツ化」にこのような言葉が記されています。

 どこまでも「ドーナツ」と「無」について、考える村上春樹がいると思います。

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 『羊男のクリスマス』『村上ラヂオ』には、佐々木マキさんや大橋歩さんによるドーナツの絵が描かれています。それと『若い読者のための短編小説案内』の村上春樹が描いたドーナツ形の図解を見比べながら、ドーナツに思いを馳せるのも面白いですよ。

 たくさんのドーナツを紹介したので、今日はドーナツを食べたいと思います。(共同通信編集委員 小山鉄郎)

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