松永光弘 ガラス爆破の裏で…試合前に決断していた!!「最後の大日本リング」

松永の体がガラスを割ると同時に轟音を上げて大爆発が起きる。横浜アリーナがどよめいた瞬間だ

【ミスター・デンジャー松永光弘 この試合はヤバかった】 ミスター・デンジャー、松永光弘氏は大日本プロレスの横浜アリーナ大会、ザンディグに敗れたBJWデスマッチヘビー級王座戦(2001年12月2日)の後、リングを離れることとなる。松永氏はこの時、何を考え、なぜ戦いの場に背を向けたのか。

【2001年12月2日 松永光弘VSザンディグ】

ガラス爆破デスマッチは、W☆ING時代に発表されたものの実現できなかったデスマッチでした。それが8年の時を経て大日本プロレスで実現しました。

当時考えられるデスマッチの中で最も派手でバイオレンスなデスマッチであったと思われます。W☆ING時代からの考案物をようやく実現できたのですから、感慨深いものがありました。

しかしこのデスマッチの試合後にアクシデントが起きます。

対戦相手のCZW軍のボス、ザンディグが私から王座を奪取した直後、リング上にCZW軍を全員呼び寄せてマイクを持ち「CZWはもう日本には来ない」と大日本プロレスにとって寝耳に水である発言をして館内が騒然となりました。これはベルトの持ち逃げでもあり、次期シリーズからのスケジュールのボイコットでもあります。

騒動の渦中、リング上で一人ピエロのように浮いてしまった私は、大日本プロレスとの決別を言葉とジェスチャーで示しリングを去りました。私にとって、これが大日本プロレス最後の試合になりました。

おそらくプロレスファンは私がこの事件に怒り、大日本プロレスを去ったと考えていると思いますが、実は違います。試合後、控室では荒れることなく、小鹿社長、登坂部長とこの時のアクシデントへの対処と、CZWへの罰則などについて普通に会談しています。

また、CZW軍でもこのこと(ザンディグの「もう日本には来ない」との突然の発言)を知っていたのは、ボスのザンディグのみで、CZWの他の選手は「我々は全く知らなかった。また日本に来たい。我々の意思を小鹿に取り次いでほしい」と、大日本プロレスの日本人選手に話しかけていました。横浜アリーナのビッグマッチは、まさにザンディグ一人の暴走に全員が振り回された形だったのです。

しかし私は、確かにこの日を最後に大日本プロレスを去っています。

実はそれは試合前から一人で考えていました。

なぜかと言いますと、それは同年、01年10月に起きた、ハヤブサ選手の頸椎損傷というケガでした。かつて同じリングでしのぎを削った仲間が再起不能と思われる負傷をして、2か月後のこの時点で寝たきりの状態。「俺もこんな試合を続けていたらいつかはハヤブサ選手のようになってしまうのではないか」とプロレスを続けることに怖さを感じるようになっていたのです。

すでにステーキ屋は軌道に乗っていて、いつでもプロレスをやめられる状態でした。

ところがプロレスは簡単にはやめられませんでした。

☆まつなが・みつひろ 1966年3月24日生まれ。89年10月6日にFMWのリングでプロレスデビュー。数々のデスマッチで伝説を作り、2009年12月23日に引退試合。現在は現役時代に開店した人気ステーキハウス「ミスターデンジャー」(東京・墨田区立花)で元気に営業中。

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