メクル第522号 原始人の暮らしって? 「柿泊遺跡展示コーナー」で学ぶ

「柿泊遺跡展示コーナー」には出土品やパネルが並んでいます=長崎市総合運動公園内の管理事務所

 陸上や野球など各種スポーツでにぎわう長崎市柿泊(かきどまり)町の市総合(そうごう)運動公園ができたのは1996年。施設(しせつ)ができる前は畑や森が広がっていました。公園の整備(せいび)に先立ち、大規模(だいきぼ)な調査(ちょうさ)が行われ、旧(きゅう)石器時代から縄文(じょうもん)時代にかけての石器など約1万点が出土。あまり知られていませんが、「柿泊遺跡(いせき)」と呼(よ)ばれています。どんな出土品が見つかったのでしょう。また、私(わたし)たちの祖先(そせん)である原始人はどのように暮(く)らしていたのでしょう。資料(しりょう)を基(もと)に歴史をひもときます。

 市教育委員会は、公園整備に着工する前の93年から2年間にわたり、埋蔵文化財発掘(まいぞうぶんかざいはっくつ)調査を実施(じっし)しました。手作業で探(さが)した結果、B4.5地区(図参照)などから旧石器時代のナイフ形石器などが出土。D地区からは縄文時代の石器類のほか土器片(へん)、たき火をした炉(ろ)の跡(あと)も見つかっています。

柿泊遺跡全景と市総合運動公園全景

 出土品は約2万年前から約7千年前のものが中心で、管理事務(じむ)所(しょ)内の「柿泊遺跡展示(てんじ)コーナー」には、ナイフ形石器や石槍(いしやり)、矢の先端(せんたん)に付ける石鏃(せきぞく)などの狩(か)りの道具、動物の解体(かいたい)などに使われた石匙(いしさじ)、石斧(せきふ)など約50点を展示。社会や歴史の教科書に載(の)っているようなものばかりです。
 報告書(ほうこくしょ)をまとめた市文化財課の宮下雅史(みやしたまさふみ)さんは「湿地帯(しっちたい)の周囲の緩(ゆる)やかな斜面(しゃめん)は泥(どろ)がたい積しやすい状態(じょうたい)で、古い地層(ちそう)の上に新しい地層が積み重なり、良好な形で遺物が残っていました。長崎市内では旧石器時代の遺跡の調査例が少なく、当時の人々の活動を知ることができる遺跡」と話しています。
 県内では、佐世保(させぼ)市吉井(よしい)町にある旧石器時代から縄文時代の洞窟(どうくつ)遺跡「福井洞窟」が有名です。日本最古級の土器などが出土し、国指定史跡になっています。
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 原始人はどのように暮らしていたのでしょうか。日本考古学協会員で、前長崎県考古学会長の下川達彌(しもかわたつや)さんは次のように説明します。
 2万年前は氷河期(ひょうがき)。日本はアジア大陸とつながっていて、各地にナウマンゾウがいた時代でした。人類は大型の動物を狩猟(しゅりょう)していた可能性(かのうせい)があります。1万数千年前になると、気温の上昇(じょうしょう)で氷が解(と)け、海水面が100メートルほど上昇(じょうしょう)。日本は大陸から離(はな)れて島になりました。温暖になるにつれ動物は小型化したとみられ、原始人は動きが速い動物を捕獲(ほかく)するため弓矢を作りました。
 植物も変わりました。旧石器時代には寒冷地に育つクマザサなどが少量見られますが、縄文時代には、シイ、クスノキ、ブナなど照葉樹(しょうようじゅ)が登場。炉跡があるので、ドングリなどを煮(に)るために火に掛(か)けていたのかもしれません。
 柿泊遺跡の出土品は、縄文時代まで。その後の弥生(やよい)時代以降(いこう)の遺物はほとんどありません。生活の拠点(きょてん)は、海岸部に移(うつ)ったとみられます。獲物(えもの)をとりすぎて、食料不足に陥(おちい)った可能性も考えられます。
 下川さんは「柿泊遺跡の遺物から、時代の移り変わりや生活の進歩も分かります。人類は気候、環境(かんきょう)の変化に対応(たいおう)し、今日まで歴史を築(きず)き上げてきたのです」と説明しています。

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