日本ハムファンの皆さんへ 有原航平、旅立ちの手記「6年間、僕が言えなかったこと」

Full-Countに手記を寄せたレンジャーズ・有原航平【写真:荒川祐史】

レンジャーズ合流へ今日渡米…メディアに多くを語らなかった男が初めて明かす本音

日本ハムからポスティングシステムで大リーグのレンジャーズに移籍し、今日7日に渡米する有原航平投手が「Full-Count」を通じ、ファイターズファンへ感謝の手記を寄せた。早大から2014年ドラフト1位で4球団競合の末に入団。1年目に新人王、2年目に日本一、5年目に最多勝など6年間で60勝を挙げ、今オフに積年の夢だったメジャー移籍を実現させた。これまでメディアに多くを語らなかった男が「6年間、僕が言えなかったこと」として本音を打ち明けた。【構成=神原英彰】

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ファイターズファンの皆さんへ

今日、僕はアメリカに旅立ちます。11月26日にポスティング申請をさせていただき、12月20日に渡米。レンジャーズに移籍先が決まり、1月10日の日本ハム退団会見を経て今に至るまで、あっという間でした。心の中にあるのは、不安よりもずっと大きな楽しみ。本当にわくわくしています。

この6年間、インタビューなどであまり口数多く話すことがありませんでした。それは恥ずかしさもありますし、プロ野球選手として発信し、注目されるのは野球だけに留めたいという想いもありました。その分、ここでは「6年間、僕が言えなかったこと」を本音でお伝えしたいと思います。

2014年10月23日。この日は忘れられない日になりました。ドラフト会議です。

4球団も指名をいただき、大変高い評価をしてもらいました。そして、抽選で引き当てたのはファイターズ。これは初めて言うのですが、ファイターズに一番行きたかったので、本当に嬉しかったです。その瞬間は、早稲田の寮でチームメートたちが一緒に祈ってくれて、津田球団社長(当時)が引いてくれた。「ヨッシャー!」と喜んだことを覚えていますし、入団後も津田球団社長には球場で会うたびにお礼を言っていたくらいです。

日本ハムに行きたかった理由は、自分が一番成長できる環境があると思ったから。若い投手が多く、やりたいことに自由に挑戦できる。型にハマることは好きなタイプではなかったので、この球団でプレーしたいと思いました。6年経った今、日本ハムに入って本当に良かったと思います。

22歳で入団し、もう28歳に。振り返ると、本当に早かったです。1年目は右肘の怪我からスタートしながら新人王をいただき、2年目に日本一。この年がやはり印象に残っています(9月21日の首位攻防ソフトバンク戦の9回、陽岱鋼さんのスーパーキャッチ。あれは感動しました!)。3年目に初めての開幕投手、4年目は抑えを経験、5年目は最多勝を獲得することができました。そして、コロナ禍で戦った6年目まで。

その中で、一番大きな出会いを挙げるとするなら、吉井理人投手コーチです。2年目の2016年に就任され、3年間、お世話になりました。

1年目の僕は余裕がなく、考えていたのは「とにかく強い球を投げる」だけ。吉井さんと出会って配球を含め、意識が変わりました。良い日も悪い日も、登板翌日にロッカーで個別に15分の反省会。一番言われたのは「自分でコントロールできないことを気にしても仕方ない」ということ。

当時は微妙な判定があると気持ちに出てしまう弱さがあり、「それは絶対にやめよう、良いことは一つもない」と口酸っぱく言われました。勝った試合でも「ちょっと出てたな。もうちょいやな」、負けた試合でも「昨日はできてた。良かったぞ」と精神的に未熟だった自分を見放さず、常に向き合ってくれました。2019年にロッテに移っても、挨拶に行くと「ようやっとるな」「顔に出なくなったな」と気にかけてもらい、感謝しています。

6年間で苦しかった時期もあります。一番は2017年。その前年、2年目で日本一になり、自分もイケると手応えを掴んだ矢先、開幕投手をさせてもらってから1か月、全く勝てませんでした。その時も助けてもらったのが、吉井さんです。

開幕2度目の先発だった4月8日のオリックス戦。僕は12安打8失点で試合を壊してしまいました。しかし、試合中に吉井さんから「今日は最後まで行こうか」と言われ、完投しました。これだけ点を取られてしまい、代えられるだろうと覚悟していたので驚きました。後日、その理由について「あそこで代えても得るものはない。投手が頑張っている姿を見せろ。周りの選手は見ているぞと伝えたかった」と言われ、心に響きました。

どんな状況でも粘り強く投げていたら、野手もなんとかしようと思ってくれる。そういう自分のピッチングを見ている。もし打てなくても、次の試合でカバーしようとしてくれる。それをきっかけに勝ち負けを考えすぎることなく、とにかく自分にできることをしようと意識を変えました。今になってみると、1年目はまだまだ子供でした。ピンチになってイライラして大量失点していたこともあります。

技術や配球もそうですが、投手として大きく成長させてくれたのが、吉井さんとの反省会だったと思います。

ファンと選手、それぞれへの感謝…中田、上沢、西川、そして田中賢

苦しい時に支えてくれたのはファンの方々も同じです。今、日本ハムに入団できて良かったと思う一番の理由は、ファンの皆さんの存在でした。

カウントが悪くなると拍手をくれる。こんなことはほかの球場にはないですし、苦しい時も優しく温かく、家族のように応援してくれることを、いつもマウンドで感じていました。それは、北海道という土地柄もあると思います。試合やイベントでいろんなところに行きましたが、本当にどの町に行っても、どの店に行っても皆さん、ファイターズを知っていて「頑張って」と声をかけてくれて、温かい。北海道は本当に良い場所です。

2、3年目から普段いただいているファンレターに、こんなメッセージが書かれている機会が増えました。

「打たれても必死に投げている姿に感動します」

その言葉をもらえることで良い時はもちろん、悪い時であっても応援してもらっていることを実感し、また頑張ろうと思えました。2016年に優勝して以降はチーム順位が振るわず、申し訳なかったのですが、それでもずっと応援し続けてくれる。ファイターズ、北海道で良かったと思います。

もちろん、6年間、一緒に戦った選手の皆さんにも感謝しています。この場を借りて、お礼を言わせてください。

中田さん。1年目のデビュー戦で死球を当てたら、相手打者にすごまれたことがありました。その時、中田さんが一塁からすぐに来て「ビビらず投げろよ」と声をかけてくれました。その励ましで勝った試合も、バットで打ってくれて勝った試合もたくさんあります。本当に頼りにしていました。

上沢。めちゃくちゃ良い投手だし、2人で結果を残せたら、チームは強くなると思って僕も上沢も頑張ってこられたと思う。投手陣の中でも時間をともにすることが多くて、互いに仲良く、でも切磋琢磨する本当に良い関係で、一緒にいて楽しかった。2019年に選手生命に関わる怪我をした時、病室にお見舞いに行っても「頑張ってくださいよ!」と逆に明るく励ましてくれた。それだけの怪我をして、そんな風に言えるなんてすごい。その分、去年、戻ってきて投げている姿を見て、嬉しかった。怪我さえしなければ、きっと良い成績を残せる。だから、怪我だけしないように気を付けて。

西川。入団した時、同い年が西川と谷口だけ。その分、1軍で一緒にいて過ごした時間も長く、特に3、4年目くらいからアドバイスをもらっていました。誰よりも野球を考えて研究している。真後ろのセンターから見て「癖、出てるぞ」と気づいたことを伝えてくれたり。マウンドから、ふとセンターを見るとジェスチャーで助言をくれたり。同い年ですが、僕自身、野球についてもっと考えるきっかけをもらい、成長させてもらいました。

鶴岡さん。ソフトバンク時代に対戦し、同じチームになったのは2018年から。「このボールで抑えられないなんて」「15勝くらいできないとおかしい」と励ましてもらい、自信になりました。野球についても本当に勉強になりました。確か、バッテリーを組んだのは2回くらい。でも、2018年に抑えだった6月16日のヤクルト戦、9回1死二、三塁で飛び出した走者を刺して三振ゲッツーにしてくれたこと、頼もしくて、今も鮮明に覚えています。

あとはやっぱり、賢介さん。2年目、9月2日のオリックス戦で賢介さんのエラーが絡んで負けた試合がありました。その試合後に初めて食事に誘ってもらい、大先輩なのに「ホント、ごめん。怒らんとって、頼むわ」と(冗談っぽくですが)謝られ、笑ってしまいました。それが始まりで、ずっと良くしてもらいました。忘れられないのは2019年。登板する試合はいつもベンチで僕の隣に座って、声をかけてもらったこと。調子が良くないと「おい、おい。今日はイライラしてるね~」といじられる。でも、賢介さんが言うと許せてしまい、自然とリラックスしていました。

「今日はたぶん、そういう日だ。状態が悪いのは、どうにもできないから、ここからなんとか粘れ」と励ましてくれたり、調子が良い日は「良いね~、今日は」「このままスイスイお願いしますよ~」と言ってくれたり、本当にうまく乗せてくれました。賢介さんが引退する2019年に最多勝を獲ることができたのは、前年のオフに「お前はこんなもんじゃないだろ」「ちゃんとやれ、来年は絶対に頑張れ」とゲキを飛ばしてもらったから。あの時から、僕は変われたと思います。引退式で泣いてしまったのは、そのくらい僕にとって大きな存在だったので、寂しかったからです。

杉谷さん。杉谷さんは特にない…と言いたいところですが(笑)、お世話になりました。登板日は「俺、今日準備できてるから」「いえ、大丈夫です」の挨拶が、お決まりでした。いつも早稲田会に参加してましたが、帝京出身ですよね? リアル野球BANくらいシーズンでも打ってください!

そして、栗山監督。良い時も悪い時も使い続けてもらい、一番信じてくれていたと思います。メジャーに決まった時も「もっとできる、楽しみにしているから頑張れ」と温かく声をかけていただき、感謝しかありません。活躍することが恩返しだと思っているので、これからも見守ってください。

こうして一人一人を挙げれば、キリがありません。ファイターズで関わった皆さん、本当にありがとうございました。

メジャー移籍した大谷翔平がシーズンオフに家に来てくれて語ったこと

そして、メジャーリーグには対戦したい選手がいます。大谷翔平です。

翔平とは入団から3年間、一緒にプレーしました。メジャーに移籍した1、2年目のオフは日本で一緒に食事をしていて、僕の家に来てくれました。メジャーについて聞くと「いやあ、いいっすよ」「めっちゃ、凄いです」と。あの翔平がそう言うからには、本当に凄い世界なんだろうと思い、「自分も……」という気持ちは膨らみました。ようやく、その舞台に立てる。しかも、同じ地区。打者・大谷と対戦できることを楽しみにしています。

球団に初めてメジャーへの想いを伝えさせていただいたのは2019年オフの契約更改の席。率直に「メジャーで勝負したいです」と気持ちを話すと、吉村GMに「選手の夢は応援する。頑張れ」と言っていただきました。入団する時からアメリカに行きたい夢があることを知っていて、応援し続けてもらい、大卒6年目の年で行かせてもらえることを本当にありがたいと思うと同時に、その分、感謝を結果で示したいです。

北海道からメジャーに渡るということは、ファイターズの代表として行くことでもあります。僕の投球、言動、そういうものがファイターズの評価につながる。それに恥じないようにということを一番に思っています。ファイターズの理念にもあり、僕が6年間で身につけ、成長することができた「諦めない」という精神をどんな状況でも持ち、戦い続けることを約束します。そして、ローテーションを1年間、守り抜きます。

最後に。6年間、いろんなことに自由に挑戦させてもらい、日本一も経験させてもらいました。本当にファイターズの一員になれて良かったと思いますし、ファイターズじゃなかったら、今の自分は絶対にいなかったと言い切れます。その感謝を胸に、アメリカで頑張ってきたいと思います。

では、行ってきます。皆さん、お元気で。

2021年2月7日

テキサス・レンジャーズ 有原航平(Full-Count編集部)

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