楽天・田中将と侍・稲葉監督の“因縁と絆” 戦友でありライバルだった

2013年のWBC強化合宿で。投球練習をする田中(手前)を見守る稲葉氏(左)

【赤坂英一 赤ペン!!】楽天に復帰した田中将と侍ジャパン・稲葉監督との“絆”が、再びクローズアップされている。ふたりは選手として2008年北京五輪、09、13年WBCで戦った“戦友同士”なのだ。

しかし、自分のチームに戻れば、当時の田中将は楽天のエース、稲葉は日本ハムの主砲という敵同士。あのころはチーム同士もまた、激しい優勝争いを繰り広げていた。

過去の対戦成績を見ると、侍ジャパンで一緒になったころは稲葉の方が分がいい。田中将が11勝した10年は、稲葉の11打数5安打で打率4割5分5厘。19勝した11年、田中将は8本塁打されているが、うち2本は稲葉なのである。

当時、稲葉と田中将の双方にこの2ホーマーについて聞く機会があり、その内容が実に興味深かった。まず、11年7月20日の対戦で放った1本目について、稲葉の証言。

「打ったのはストライクゾーンからボールゾーンに落ちるスライダー。僕には、ここから下には手を出さないと決めている低めのゾーンがあって、そこよりほんの少し高めに入ってきた。ボール1個か、半個分。もっと大きく落ちるフォークを投げられていたら、打ち取られていたはずです」

これに対して、田中将はこう説明している。

「僕の投げミスです。力負けではありません」

稲葉の2本目は8月7日の第1打席。このときは、稲葉の“読み勝ち”だった。

「田中将が捕手のサインに2度首を振ったので、あっ、インコースに真っすぐがくるぞ、と直感で分かった。前回の対戦で僕にスライダーを打たれているので、最初はこれに首を振った。2度目に首を振ったのは、恐らくフォークでしょう。残るは真っすぐしかない」

稲葉の話を伝えると、田中将はこう言った。

「あの日は、僕の調子はよかった。配球が単調になり過ぎた結果です」

ちなみに、稲葉に本塁打された2試合、田中将はいずれも負け投手になっている。11年は5敗しかしていないが、うち2敗を稲葉と日本ハムに喫した計算だ。が、田中将はこう付け加えた。

「あのときも、稲葉さんに力負けしたとは思っていません。自分のミスはきちんと反省しました。11年はあの試合以降、ホームランは1本も打たれていないはずです」

いったん楽天を離れた13年までの7年間、稲葉との通算対戦成績は83打数20安打、打率2割4分1厘、3本塁打。田中将はしっかり巻き返したのである。稲葉監督は、そんな田中将の修正能力を最もよく知るライバルだったと言っていい。

☆あかさか・えいいち 1963年、広島県出身。法政大卒。「最後のクジラ 大洋ホエールズ・田代富雄の野球人生」「プロ野球二軍監督」「プロ野球第二の人生」(講談社)などノンフィクション作品電子書籍版が好評発売中。「失われた甲子園 記憶をなくしたエースと1989年の球児たち」(同)が第15回新潮ドキュメント賞ノミネート。ほかに「すごい!広島カープ」「2番打者論」(PHP研究所)など。日本文藝家協会会員。

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