「マイクは死んでも離さない」 日テレ・倉持アナ 浅間山荘事件中継で山荘200メートルまで匍匐前進

タッグを組んでシャープ兄弟を迎撃した時の力道山(左)と木村政彦

【越智正典 ネット裏】プロレスを初めて放送したのは昭和28年8月28日に開局した民放テレビ第1号局日本テレビで、29年2月19日のことである。何日前だったか。営業部の近藤晃郎がアナウンサーの席にやって来た。

「『プロレスリング』を放送するのでよろしくな」

「プロレスリング」。聞いたことがない。「『プロレスリング』ってなんだい」。近藤が言った。「オレも知らないんだ。会長(正力松太郎)命令なんだ。売りに行かなきゃあー」(スポンサー探し)

いつもは話好きのコンちゃんも「とにかくよろしく」と言い残すと、千代田区二番町14番地の局を飛び出して行った。その日の昼の部の放送が終わると、日頃悠然としている運動部の京谷泰弘(海軍兵学校、早大、のちにFMヨコハマ専務)が情報を持って来てくれた。

「明治座の新田新作社長が会長に頼みに来て決まったんだ。日本は柔道の木村政彦、相撲の力道山、アメリカはベン・マイク、シャープ兄弟で蔵前国技館で3日間戦うんだ」

話をこの先に進める前に昭和38年日テレ入社の倉持隆夫アナウンサーの歩みを辿って行きたい。倉持はプロレスはじめ正力杯学生柔道など会長特命放送を担当した。安田春雄と河野高明がデッドヒートのゴルフ日本選手権。「いよいよ18番ホール。振りむけば赤いセルビアの花」。死闘を見事に活写している。

自費でプロレス取材のアメリカ・テキサス州サンアントニオにも飛んだ。ゴング1時間前にシビックオーデトリアムに着くと、着飾った男女がリングサイドでシャンパンパーティー。倉持は天井桟敷でピーナツも買えないでじっと見ている少年の瞳に学んだ。

帰国。長野のホテルにブッチャーを訪ねた。ブッチャーは「チョコレートを送ったよ」。家に電話をかけていたが終わると泪した。「少年時代チョコレートも買えなかった…」。倉持はだから「グレイテストブッチャー」と心に刻み、ブッチャーの歌を作詞作曲した。

日本テレビを定年になると、スペイン国立セビージャ大学に。登史夫人は南欧の光りを喜び画を描いた。帰国後、平成22年「マイクは死んでも離さない」(新潮社)を著した。書題を聞いて仲間たちは浅間山荘事件のドキュメントにちがいないと思った。

昭和47年2月19日午後3時過ぎ、連合赤軍派5人が軽井沢の「河合楽器」の浅間山荘に管理人主婦を人質に立てこもったという一報が入ると、民放各社も中継を決断。スポンサーに了解を求め、CMもやめ番組枠を取り払い機材、スタッフを投入。TBS100人(信越放送50人)、ENG、ハンディーカメラを持ち込み他局をあっといわせた。フジテレビ90人、日本テレビ50人、日本教育テレビは朝日テレビ制作38人(日本放送協会編刊「放送五十年史」)。

2月28日警官が突入、人質を救助、犯人を逮捕することになる朝、倉持隆夫は狙撃銃弾下、山荘200メートルまで匍匐前進。マイクを離さなかった。中継放送時間は日本テレビ9時間、フジテレビ8時間59分、TBS8時間50分、日本教育テレビ8時間40分(同)。仲間がこの中継の本だと思ったのは当然である。が、倉持の著書は、なんとプロレス賛歌だったのである。 =敬称略=

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