白い砂浜が真っ赤に染まったという。長崎県五島市三井楽町の白良ケ浜。透き通った波が寄せる海辺は、かつて大量のイルカで埋め尽くされ、肉などは島民の貴重な食料となった。島でイルカの「漁」が盛んだった時代、そして国際世論とせめぎ合った時代の記事を手に、現場を訪ねた。
◆格闘の末に
イルカの大群と格闘-。1966(昭和41)年7月23日付の本紙に、そんな見出しが躍る。記事によると前日午後、約50隻の船が三井楽湾に迷い込んだイルカを砂浜へ追い込んだ。漁師たちは110頭を捕らえて解体し、肉を持ち帰ったという。白黒写真には、砂浜に横たわる多数のイルカと、そばに立つ人々が写っている。
白良ケ浜は福江島北西部に突き出た三井楽半島の付け根にある。潮が引くと、水際まで数百メートルの砂地が現れる遠浅の地形。ウオーキングや犬の散歩をする住民の姿が見られるが、海沿いを歩いてもイルカの“痕跡”は見つからない。
◆地域で配給
三井楽漁港のそばで、当時を知る人に出会った。地元漁協の事務職員を40年近く勤めた春口満寿男さん(87)。海沿いに暮らし、子どもの頃からイルカと島民の「格闘」を間近で見てきた。
「漁船がずらーっと並んで沖から追ってきてね。その前をイルカの群れが海面を飛びながら泳いで、最後は砂浜に乗り上げる。みんなが家から出てきて『どれくらいおるかな』と見物するんですよ」
イルカの肉や皮、ヒレなどは、地域の世話役が住民に配って回った。イルカの群れが浜に入った後は、どの家庭の軒下にも肉が干されたという。貴重な保存食で煮物などにして食べられた。
春口さんは「味が苦手」で食べられなかったが、中には肉をこっそり切り取って持ち帰る人や、三井楽以外から肉をもらいに来る知人も。「イルカが捕れると“親戚”が増える」と言われるほどだったという。
◆非難と食害
だがその20年余り後の記事を読むと、「漁」を取り巻く世情は異なる。90(平成2)年11月4日付の本紙の見出しには「イルカ600頭乗り上げる “招かれざる客”に当惑」とある。当時は自然保護団体や欧米からイルカ漁への強い反発が出ていた時期。漁船でイルカを追い込んで食用にすることが、海外メディアなどで強く非難された。
本紙は、イルカの食害で近海のサバやイカなどが捕れないと嘆く漁業者の声も紹介。記事は「補殺すれば非難を受け、見逃せば漁民の生活に影響する」と、板挟みになった島民の立場で締めくくっていた。
当時を知る住民女性(84)によると、食べられずに埋められたイルカも少なくなかった。「その頃はもう(牛や豚などの)肉が簡単に手に入った」ことも背景の一つ。この出来事を境に、白良ケ浜で大量のイルカが捕獲されることはなくなったという。国際世論や食生活の変化に押され、貴重なタンパク源として島民の命を支えたイルカ漁は、次第に消えていった。
◆ひっそりと
帰り際、白良ケ浜沿いの松林を歩いていると、道端に「海豚(いるか)累代之墓」と書かれた看板が落ちているのを見つけた。周囲を探すと、小高い丘の上に石碑がひっそりとあった。側面に「昭和二十四年五月五日建立」「海豚組合」の文字。供養塔だろう。
30年ほど前まで大量のイルカが追い込まれていた砂浜が眼下に見えた。あえてイルカを食べたいとは思わないが、自分も牛肉や魚を口にすることを考えれば、離島で栄養源が乏しかった時代にイルカを食べてきた歴史を簡単に否定することはできない。傾きかけた太陽が、青い海を少しだけオレンジ色に染めていた。