野球 小島啓民 銅メダル獲得に貢献 「初打席で急に脚が震えだした」 【連載】日の丸を背負って 長崎のオリンピアン

「時代の流れをいち早くつかみ、独創的な発想をしていけるか」と野球界の未来について語る小島=長崎市

 世界的な「ベースボール」の熱は、国内で根強い「野球」に及ばない。それは五輪の歴史が物語っている。正式競技になった1992年のバルセロナ以降、5大会連続で実施されたが、2012年ロンドン、16年リオデジャネイロは不採用。今年の東京で復帰するものの、その後のめどは立っていない。
 バルセロナで銅メダル獲得に貢献した小島啓民は、当時を懐かしそうに振り返った上で、こう分析する。「野球は特別な競技という感覚を持っていた。野球だけという時代は、もう終わってきている。今まさに変革の途中にある」と。
 自身が出場した時代は大学生や社会人などのアマチュアでチーム編成していた五輪代表。「国内的にまだサッカーより野球で、日常的に注目されていた。ただ、正式競技になっても“プロ選手じゃないんだ”という世の中の風潮は感じていた」

■覚えていない
 それでも、当の選手たちにとって、五輪の舞台は特別だった。会場は「ベースボール」発展途上国の欧州であっても、仮設球場は多くの観客で埋まった。スペインとの初戦。「初打席で急に脚が震えだした。ヒットを打ったが、正直、覚えていない。興奮か、不安か、そのプレッシャーは、やったもんにしか分からない」と回想する。
 00年秋から約1年間、JOCの研修制度で米国に留学。本場の「ベースボール」を学んだ。その後は社会人日本代表の監督をはじめ、小久保裕紀(ソフトバンクコーチ)が率いた「侍ジャパン」でコーチを務めるなど、指導者としても第一線で活動。プロアマ両方と関わりながら「野球」を見詰めてきた。

■「正式」定着へ
 今、野球を取り巻く環境は変わった。「公園でキャッチボールする子が減り、地上波のプロ中継もなくなった。それを変えるのは無理。時代の流れをいち早くつかみ、独創的な発想をしていけるかどうかが大事」と力を込める。
 セ・パ12球団も、以前より競技普及に力を注いでいる。ただ、それ以上にカギを握るのが「各地の社会人チームをはじめとするアマチュア」だと指摘する。
 「日本の野球の歴史はアマ主体でやってきた。社会人チームは地域のシンボルでもある。その構図は簡単に変わらない」。それだけに、長い歴史を誇り、自らも在籍した三菱重工長崎の活動がなくなった地元の現状は「寂しい」と言う。
 とはいえ、毎試合数万人の観客を動員する甲子園をはじめ「日本の文化」の一つとして根付いた競技が、このまま下火になるとは思わない。だからこそ、東京五輪への期待は大きい。「日の丸のためにという思いが強い選手を選んでほしい。そして出場するからには将来の野球界を引っ張っていってもらいたい」
 願いはもう一つ。国際的に視野を広げること。日本が長年かけて築いてきた「野球」を世界に披露して「ベースボール」を引っ張る。普及していく役割を担う。その先に五輪での正式競技定着があると信じている。=敬称略=

 【略歴】こじま・ひろたみ 諫早市出身。諫早高時代、1980年春の甲子園2回戦で決勝適時打を放つなど8強入りに貢献。早大卒業後、三菱重工長崎に入社。主力打者として91年の都市対抗大会で準優勝、監督を務めた99年も準優勝した。92年バルセロナ五輪後はアジア大会やワールドカップなどの国際大会で指導者として活躍。現在は長崎市のチョープロで新エネルギー事業開発部長を務める。56歳。

バルセロナ五輪のドミニカ戦で左越え3ランを放ち、ナインに迎えられる小島(右端)=ロスピタレト球場

© 株式会社長崎新聞社