待ちわびた判決も「古里に帰れるわけではない」 原発避難者訴訟、90歳原告のやるせない思い

国と東電双方に賠償を命じた東京高裁の控訴審判決を受け、垂れ幕を掲げる原告側弁護士=19日午後、東京高裁前

 東京電力福島第1原発事故で福島県から千葉県に避難した住民らが、国と東電に損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決が19日に言い渡された。東電にだけ賠償を命じた一審千葉地裁判決を変更し、国の法的責任を認めた。東電に対する規制権限を行使しなかったことを「違法」と判断した。原告の一人、90歳の男性は当日、家族に付き添われて高裁へ足を運び、判決を聴いた。「裁判長が『経済産業大臣の責任を認める』と言ったのがはっきり聞こえた」。最初はほっとした気持ちが大きかったが、時間がたつと違う思いがこみ上げてきた。「裁判で勝っても古里に帰れるわけではない」(共同通信=永井なずな)

 ▽「すぐに避難を」

 枯れ草に覆われた庭、ほこりが立ち込め、カーテンで閉ざされた居室―。男性の自宅は、第1原発から約10キロの福島県浪江町小丸地区にある。「さまざまな立場がある身内に配慮したい」と、匿名を条件に今回取材に応じた。

 15代続く農家の四男に生まれ、戦死や病死した兄3人に代わり後継ぎに。かやぶき屋根だった母屋を40代で建て替え、自分の山で伐採したヒノキを柱に据えた。町議や区長を務め、客間は地域の寄り合いでにぎわった。

帰還困難区域の自宅に一時立ち入りした男性=2019年1月、福島県浪江町小丸地区

 2011年3月11日、家が激しく揺れた。東日本大震災が発生。3日後、訪れた全面マスク姿の警察官に「すぐに避難を」と促され、翌朝、同居する娘夫婦と自家用車で避難を始めた。風向きの影響で小丸地区の放射線量は高く、最初にたどり着いた避難所では入所を拒まれた。内部被ばく量を検査後、同県二本松市の体育館に宿泊。お湯を入れたペットボトルで暖を取ったが「寒いなんてもんじゃなかった」。

 千葉県の親族宅にその後身を寄せ、娘夫婦とはバラバラの避難生活になった。「ついのすみかを追われた。あまりに無念だった」

 ▽荒れ果てた庭

 13年3月、第1原発事故の避難者らが東電や国に損害賠償を求めた集団訴訟が各地で提訴され、男性も千葉県の訴訟の原告に加わった。同種の集団訴訟はこれまでに約30件が起こされ、原告は計1万人を超す。住民側は、事故につながる巨大津波を予見できたのに国や東電が対策を怠ったと主張している。千葉訴訟で住民側は、東電と国の双方を訴えたが、17年の千葉地裁判決は国の責任を認めず、住民側と東電が控訴した。

 控訴審では19年6月、事故で立ち入りが原則禁止された帰還困難区域など福島県内の被災地視察が実現。男性は、防護服姿の裁判官に動物のふんが散らばった自宅や荒れ果てた庭を案内した。「じっくり見て、話に耳を傾けてくれた。思いはきっと伝わった」

控訴審判決を前に東京高裁に向かう原告と弁護団=19日午後、東京・霞が関

 集団訴訟を巡る高裁判決では、20年9月の仙台高裁が国の責任を認めた一方、今年1月の前橋訴訟の東京高裁は認めず、判断が分かれていた。3例目となった19日の判決では一審の判決を変更、国の責任を認めた。

 ▽戻りたいのは…

 男性は現在、娘の避難する横浜市で生活する。「鳥や虫の鳴き声が聞こえた浪江に比べ、都会の騒音はたまりかねる。戻りたい」。だが、戻りたいのは事故で変わり果てた今の古里ではない。先祖の位牌や仏壇は自宅に残したままで、墓参りは新型コロナウイルスの影響でめどが立たない。

 5月には91歳になる。「覚悟はしていたが裁判は長い」。足腰が徐々に弱り歩行にはつえが欠かせない。近年は家族の付き添いを得て裁判を傍聴し支援者の集いに参加してきた。「当初は『死ぬまで闘う』という気概だったが、だんだん体にこたえてくる」

屋根や庭に雑草が生い茂った原告男性の自宅=福島県浪江町小丸地区

 避難先で大切に飾るのは、浪江町の自宅で庭先に咲く桃の木の写真。1本に白やピンク、薄桃など色とりどりの花を付ける美しい木だったが、事故後は手入れできず雑草にのみ込まれた。「若い頃に経験した戦争は『国破れて山河あり』で、苦しくても畑や山が残っていた。それさえも奪った原発事故の方が私にはつらい」

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