コロナ禍、エジプトのナイル川クルーズどうなった?

外国人が姿を消した、産業革命以来の観光地

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エジプト南部アスワンのナイル川で運航を再開したクルーズ船(右)=2020年12月19日

 新型コロナウイルスの感染が世界的に広がった昨年3月、エジプトの「ナイル川クルーズ」に参加し日本に帰国後、感染が確認される人が相次いだ。古代エジプトの遺跡をゆっくり楽しめる世界的な観光手段だったが、エジプトもコロナ禍で一時国境を封鎖した。ナイル川クルーズは英国の産業革命で生まれ、100年以上の歴史を誇る「近代観光史」の象徴。世界の観光地の中でも老舗ツアーといえる。各地の名所旧跡がコロナ禍に苦しむ中、ナイル川クルーズはいま、どうなっているのだろうか。(共同通信=高山裕康)

  ▽アガサ・クリスティ小説の舞台

  スーダン国境に近いエジプト南部アスワン。真冬なのに夏のように暑い。青いナイル川の上を、動くホテルのようなクルーズ船「青い影号」がするすると滑るように移動していた。「乗客は27人で船室の約8割が空室だ」と昨年12月、営業責任者ハニー・ナスリさん(48)はぼやいた。デッキの上のベンチにはひなたぼっこする客がわずかにいるだけ。

客のいないクルーズデッキとナスリさん=2020年12月

 「以前は欧米客らでほとんど満室だったが、今はほとんどがエジプト人客だ」とナスリさん。川岸には停泊したままのクルーズ船がいくつも並んでいた。ナイル川には大小約300のクルーズ船があるが、この段階での運航は15隻だけという。全体像ははっきりしないが、クルーズ船のスタッフは計1万2千人ほどとみられ、雇用の維持も懸念されている。 

 古代遺跡が点在するエジプトのナイル川を大型客船に寝泊まりして移動するナイルクルーズは、王家の谷がある南部ルクソールと、アブシンベル大神殿がある南部アスワンを4泊5日間で結ぶ旅が一般的だ。その歴史は英国の実業家トーマス・クックにさかのぼる。「近代観光の祖」と呼ばれたクックは19世紀、産業革命の経済成長や蒸気船開発を背景にキリスト教の聖地パレスチナのツアーなどを次々と立ち上げた。当時の英国人にとって、英国の影響下にあったエジプトは、日本人にとってハワイのような「常夏の地」だが、貧しく快適な旅行が難しかった。そこで宿泊できる船を使い、古代エジプト人同様にナイル川を移動する旅が欧米富裕層のブームになった。ミステリーの女王アガサ・クリスティの小説「ナイルに死す」(1937年)の舞台にも取り上げられている。

 ▽日本人観光客らが感染

 現代になっても、エジプトのインフラは相変わらず貧弱だ。公共交通機関に頼らないクルーズでは、ぼったくりも混雑も避けられるため、欧米や中国だけでなく、日本人旅行者にも愛されてきた。ガイドや飲食業の雇用を生み、アスワンからルクソール一帯のエジプト人300万人の暮らしを支えてきたといえる。 

 しかし昨年3月、エジプト当局はクルーズ船で45人が新型コロナに感染したと発表。日本人を含む観光客の感染が発覚した。帰国した日本人参加者から感染事例も相次いだ。エジプトは国境を封鎖し、2019年に年間1300万人を集めた観光産業は一時的に完全にとまった。 

 エジプトは医療体制が不十分で、米国や英国からは新型コロナ対策が整っていない国とみなされた。一方で1人当たり国民総所得(GNI)が年約2800ドル(約29万5千円)と貧しいエジプトにとって観光は重要な外貨収入源だ。封鎖による経済打撃をかんがみ、当局は昨年7月に国境を開き、同10月には宿泊者数に上限を定めてクルーズを再開した。 

 欧米から「疎開」のように年末年始休暇をクルーズで楽しんだ客はわずかにいたが、観光業組合アスワン支部のハイリ・アリ支部長(67)は「1997年のイスラム過激派によるルクソール襲撃テロでも、2011年の中東の民主化運動『アラブの春』でも客足は落ちたが、これほどの危機は初めてだ。あと1年続けばすべての船が廃業となってしまう」と危機感をあらわにした。 

 アスワンの土産物屋や飲食店はまさに閑古鳥が鳴いていた。アハマド・カメルさん(28)は旅行会社の運転手だったが解雇されたという。「その後、工事現場やスーパーで働いたがすぐに失職した。街に仕事がない」と訴える。ショクリ・サイードさん(40)はアスワンでのガイドを失職して首都カイロに転職したが「長く学んだガイド業とも古代史とも無関係な仕事になってしまった」と嘆く。経験豊富なベテランガイドは、外国語とエジプト史の知識にたけており、育成は簡単ではない。このままガイドの失職が続けば、エジプト観光業界の復興にも支障が出かねない。 

エジプト南部アスワンのナイル川沿いでたたずむクルーズ船整備工の男性=2020年12月20日

 ▽エジプト版「GoToトラベル」 

 2月下旬。もう一つのクルーズ停泊地である南部ルクソールを訪ねた。エジプト政府は1月から2月にかけ同国版の「GoToトラベル」である「エンジョイ冬のエジプト」事業を実施して自国の観光客に割安ツアーを提供している。ハイリ・アリ支部長によると、クルーズの運航は12月の15隻から2月中旬には50隻に微増した。

  「今は助かっていますが、その後が心配」。ルクソールに停泊するクルーズ船「ナイルの星号」の営業責任者ジョン・ステファンさん(52)は言う。政府が定めた客室数の範囲内で一時的に満室状態だという。

 船の入口では消毒液、従業員にはマスク着用を徹底して感染対策に気を配っているが、一方、船内でくつろぐエジプト人客はマスクをしていなかった。エジプトの感染者数は約18万人に上るが、一般的なPCR検査費用は低所得者の月収に当たるほど高額で、検査は進んでいない。観光業に直接従事しないルクソールの地元市場ではマスク姿はほとんどみられず、途上国での感染対策の難しさがうかがえた。 

 先の見えないクルーズの中で、老舗観光地のブランドを代表する船やホテルは健在だ。トーマス・クックが建造にかかわった蒸気船「スーダン号」はなお現役。アガサ・クリスティも宿泊したスーダン号は約100年前に建造され、クラシックな全23室の船は「動く博物館」として見応えがある。フランス公共ラジオなどによるとコロナ禍のこの年末年始でも予約は一杯だった。アスワンのナイルの河畔にそびえ、クリスティや英チャーチル首相らが宿泊したホテル「オールド・カタラクト」も、アラブの富裕層や欧米客らで一定の宿泊客を維持できているという。 

トーマス・クックが建造にかかわった蒸気船「スーダン号」=2021年2月

  年内にはクリスティの「ナイルに死す」を映画化した「ナイル殺人事件」の公開が予定されており、地元では復興の呼び水になるのではと期待されている。ただ「もう金が尽きた。船の維持費が払えない」(ルクソールの観光船の船主アブドルアマルさん)など限界を訴える声は少なくない。