ザ・ぼんちの大ヒット曲に噛みついた「ビートたけしのオールナイトニッポン」  1981年 1月1日 ザ・ぼんちのファーストシングル「恋のぼんちシート」がリリースされた日

近田春夫、「恋のぼんちシート」の“パクリ”を認める

近田春夫があっさりと “パクリ” と認めたことにビートたけしが不満の声を上げていた。「盛り上がらないじゃねえか」と。

これが40年前、中3の僕が初めて聴いた『ビートたけしのオールナイトニッポン』だった。

1981年1月1日木曜深夜25時(日付では2日金曜午前1時)に始まった『ビートたけしのオールナイトニッポン』(以下、たけしのANN)は、瞬く間に人気急上昇、僕が通っていた中高一貫の進学校でも金曜の朝には話題が沸騰するほどだった。

僕が初めて聴いたのは2月19日深夜(日付は20日)の8回めの放送であった。前週の放送で、近田が作詞作曲したザ・ぼんちのオリコン最高2位の大ヒット曲「恋のぼんちシート」のパクリ疑惑が指摘され、これを近田があっさりと認めていた。

「たけしのANN」が発端、「恋のぼんちシート」の元ネタは?

「恋のぼんちシート」の元ネタと指摘されたのはイギリスのドゥーワップグループ、ザ・ダーツの1977年の全英6位のヒット曲「ダディ・クール」であった。発見したのはビートたけしではなくニッポン放送のディレクターだった。

実はこの曲はダーツのオリジナルではなく、アメリカのドゥーワップグループ、ザ・レイズの1957年のシングルのカップリング曲で、フランク・スレイと名ソングライター、ボブ・クルーによるものだった。

語りのようなスローな導入部分から始まり、一転アップテンポになる展開は、確かに「恋のぼんちシート」に通じる部分があった。しかし近田春夫がパクリと認めたことで、この話題は一気に終息した。

あれから40年、今年この疑惑の真相が突然明らかになった。1月末に上梓された『調子悪くてあたりまえ 近田春夫自伝』(リトルモア刊)においてである。

近田春夫の自著で明かされたパクリ疑惑の真相

近田春夫は、当時漫才ブームのトップの一組だったザ・ぼんちの得意ネタ、『アフタヌーンショー』の事件リポートにおける川崎敬三と山本耕一の物真似を、ブルースなどでよくある冒頭のつかみのパターンに乗せて曲を作った。このパターンの代表はエルヴィス・プレスリーの「トラブル」であろうと近田は評している。

これは先人の築き上げたフォーマットを引き継ぎ発展させることで剽窃ではない、そんなことを言ったら「ダディ・クール」も「トラブル」のパクリということになってしまうと近田は主張している。

しかしこの理屈は芸能マスコミには理解されないだろうし、長引くと面倒なことになりそうなので、さっさとパクリと認めてしまったというのが事の真相であった。確かに騒動はあっという間に収まったので、この判断は賢明だったのだろう。

近田はダーツにも接触し、問題ないとお墨付きをもらい、逆に彼らのシングル「シュラシュシュ天国(Show Us Your Shoe)」をプロデュースしたそうだ。こんな後日談もこの本を読むまで全く知らなかった。

「恋のぼんちシート」と「ダディ・クール」の一番の類似点は、実はアレンジであった。その背景も、そしてこのアレンジャーが後に北野武と仕事をすることになることもこの本で初めて知った。詳細はぜひ、快著『調子悪くてあたりまえ 近田春夫自伝』でご確認頂きたい。

ビートたけしが歌う流行りのテクノポップ「俺は絶対テクニシャン」

近田春夫は漫才ブームの中で出されたシングルでヒットと呼べる数字を残したのは「恋のぼんちシート」くらいだったと述懐している。

『たけしのANN』でこの曲のパクリ騒動がひと段落した翌2月21日、ツービートの3枚めのシングル「俺は絶対テクニシャン / 茅場町の女」がリリースされた。

1980年にリリースされた2枚のシングルがツービートによる語りがベースだったのに対し、このシングルは「俺は絶対テクニシャン」をビートたけしが歌い、演歌「茅場町の女」をビートきよしが歌う、本格的な歌手デビューとも言える1枚になった。そして『オールナイトニッポン』に続き、歌手でもビートたけしのソロ活動が始まった。

「俺は絶対テクニシャン」は当時流行りのテクノポップ。作詞はなんと来生えつこ。

 ピコピコ パコパコ スコスコ キンキン

 燃えた女は ピコピコわめく

 女はしびれて 感電死

…何をか言わん。「芳賀書店」「ヘンリー・ミラー」といった固有名詞をたけしが連呼するが、これは歌詞カードにも無く、たけしのアドリブだったらしい。

そして作曲はなんとあのエンケンこと、遠藤賢司だったのである。

「俺は絶対テクニシャン」でザ・ぼんちに挑むも…

ザ・ぼんちの大ヒットを意識して、ビートたけしは番組内で『ザ・ベストテン』にリクエストハガキを送るようリスナーに呼びかけた。その結果、はがきリクエストのランキングにだけ「俺は絶対テクニシャン」がランクインするという珍事も起こった。

しかしこのシングルはヒットしなかった。ツービートはザ・ぼんちほどお茶の間の人気者ではなく、ビートたけしのソロ活動も始まったばかりだった。松方弘樹との共演シングル「I’ll Be Back Again...いつかは」でオリコントップ10入りするには5年を待たなくてはならなかった。

「俺は絶対テクニシャン」は1981年2月19日深夜にも流れていたであろう。この夜はザ・ドリフターズの不祥事によるメンバー2人の謹慎の話題にもなり、「代わりにあのメンバーを謹慎させたらよかったのに」という発言も飛び出している(以上実名は控えました…)。

「恋のぼんちシート」の騒動といい、まさにそれまでに無かった “振り切った深夜ラジオ” で、僕は『ビートたけしのオールナイトニッポン』を聴き続けることに決めた。

この日、僕の人生は大きく変わってしまったのかもしれない。

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カタリベ: 宮木宣嗣

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