子鹿御前鎌倉歴史案内人の子鹿御前(@D5RoGfY1TvvY7e3)です!
北条義時は家族を守る為に戦い続け、武家政権を確立するという一見華々しい生涯に見えますが、その陰には陰謀や裏切りなど壮絶なドラマがありました。
ここでは『北条義時』の生涯を、鎌倉ゆかりの地を交えてご紹介していきます。
子鹿御前是非一緒に北条義時の足跡を旅しましょう!## 北条義時ってどんな人?
北条義時は、源頼朝の義弟
日本人なら誰もが名前だけは知っている、鎌倉幕府一代将軍『源頼朝』。
その頼朝が平家を倒すべく挙兵した1180年、義時は17歳。
頼朝の妻、北条政子の6歳下の弟でした。
同世代には、頼朝の実弟・義経。
生涯の朋友になる三浦義村。
坂東武士の鏡と称された畠山重忠などがいます。
姉(北条政子)の結婚が運命を変えた
伊豆の流人であった源頼朝と、一豪族に過ぎない北条家の長女政子が結婚。
平家全盛の時代に源氏と結婚なんてとんでもない!父・時政は反対します。
しかし政子の強すぎる意思と、源氏の将来の大逆転にかけて結婚を許します。
この決断が北条家の運命を変えたのでした。
逆の運命を辿った、伊東祐親
北条時政が頼朝と政子の結婚を許したのに対して、頼朝との結婚を許さなかったのが伊東祐親です。
伊東祐親は政子より前に頼朝に出会っていた、頼朝の最初の妻・八重姫のお父さんなんですね〜。
祐親が京での単身赴任から数年ぶりに伊豆に帰ると、頼朝と八重姫はラブラブで二人には
千鶴丸と言う可愛い男の子まで!
激怒した祐親は千鶴丸を殺し、八重姫を無理矢理他の男の人と結婚させて、頼朝の命まで狙います。
最終的には源平合戦で平家側について、富士川の戦い後捕えられて自刃します。
平家の世に源氏の御曹司と娘が子まで成しているとは、もしもこれが清盛に知れたら大変なことです。
一見、祐親は酷い人間の様に感じますが、これも家を守るためだったのです。
そして八重姫は頼朝が忘れられず、嫁いだ先から逃げてきましたが、彼はすでに政子と結婚していていました。絶望した八重姫は、入水自殺してしまいました。
青年期
▲義時が創建に携わった永福寺の跡
昔は宴などが行われる雅なお寺でしたが、今は残っていません
義時17歳の時、頼朝が平家を倒すべく旗揚げします。
この時がおそらく初陣です。
石橋山の戦いで兄・宗時が戦死して、義時は北条家の嫡子になります。
源平合戦では頼朝の実弟・義経の華やかな活躍ぶりと対照的で、いるの?くらいの目立たなぶりです。
しいて言えば、頼朝の浮気相手の家を政子が破壊させてしまった『亀の前事件』。
父・時政の後妻の牧の方の身内まで巻き込んだこの一件で、頼朝の仕打ちに怒った時政が伊豆に帰ってしまった時に、鎌倉に残って頼朝から称賛されたというエピソードくらいです。
フラれ続ける義時。キューピットは頼朝!
1192年、義時が29歳の時。
頼朝の大倉御所に勤める女官の『姫の前』と結婚します。
たいへん美しく頼朝のお気に入りでもあった姫の前に義時は、一年余りの間、恋文を送り続けましたが一向になびいてもらえず…。
見かねた頼朝が『絶対に離縁しません』と言う起請文を書かせて、二人の間を取り持って結婚に至ったそうです。
義時の妻は、四人以上?
姫の前とは仲睦まじく、朝時、重時、竹殿、他。
子宝に恵まれますが、11年後、姫の前の実家の比企氏が北条の軍勢により滅ばされ、それがきっかけとなり離縁してしまいます。
その後、伊賀の方と結婚。
他にも阿波局、伊佐朝政の娘などを妻にし、大勢の子供ができました。
義時の長男で三代執権になる北条泰時のお母さんは、実は誰なのかはっきりした事がわかっていません。
姫の前と結婚する前に亡くなった阿波局なのか、または別の妻の子なのか。
頼朝の死後に頭角を現す
▲鶴岡八幡宮から徒歩8分
西御成にある頼朝のお墓
十三人の合議制
頼朝の存命中は表立つことはなかった義時がその頭角を表すのは、1999年 頼朝の死後。
十三人の合議制が開始されたころからです。
血生臭い権力争い
十三人の合議制は頼朝の後を継いだ二代将軍・源頼家の独裁を抑えるための制度で、なんでもみんなで話し合って決める制度です(と、言っても有力御家人だけ)。
頼朝のようなカリスマ的なリーダー亡き今、政治体制としては理想的に感じるこの制度は、やがて血生臭い権力争いを引き起こして行きます。
二代執権
幼少の実朝が三代将軍に就任すると、実質的な政治の主導者は北条氏になります。
父・時政を失脚させた後、二代執権となり尼将軍と呼ばれた姉の政子と共に、幕府を運営して行きます。
武家政権を確立
承久の乱
▲鶴岡八幡宮にある今宮
承久の乱の後鳥羽、順徳、土御門の三上皇が祀られている
承久の乱がドラマのクライマックスです。
後鳥羽上皇により、義時追討の宣旨が全国に発布され義時は生涯最大の難局に直面します。
敵になることを恐れた御家人たちに、尼将軍政子が頼朝の恩を訴える演説をして団結させ、幕府軍は大勝利します。
そうして義時は幕府の基盤を固め、武家政権確立の道筋を築いていきます。
頼朝に次ぐ武家政権の創始者
▲頼朝の墓の隣にある、北条義時法華堂跡
承久の乱から三年後、義時は六十二歳でこの世を去ります。
義時の墓所である北条義時法華堂跡は、頼朝の法華堂と並んで建立されています。
これは彼が頼朝に次ぐ武家政権の創始者として、当時の人々に認識されていたことを物語っています。
北条義時の生涯まとめ
▲北条義時が建てた覚園寺
紅葉がとても綺麗です
北条義時の生涯を一言で言い現すと、
伊豆の田舎豪族が源頼朝没後の混迷を勝ち抜き、頼朝の偉業を引き継ぎ武家政権を確立させた大政治家。
または降りかかる災難に自分と親族を守るために戦い続けた結果、最高権力者になってしまった。
などと、評されますが・・・かなり黒く陰謀だらけです。
権力維持のために仲間たちを容赦無く殺して行きます。
そんな訳で頼朝死後は、私は観るのが辛くなりそうですが、そこからが義時の活躍の場です。
個人的には今まで北条義時は好きではありませんでしたが、この企画で深く義時を知っていくうちに、この人物の面白さがわかってきた気がしています。
そして個性あふれる御家人たちのエピソードも面白く、鎌倉にはそれらにまつわる史跡が残されています。
これから少しずつにはなりますが、ご紹介して行きますのでお付き合いお願い致します。
鎌倉に残る、北条義時の歴史巡る
鎌倉に残る、北条義時の歴史的なスポットは
- 覚園寺(義時が創建)
- 北条義時法華堂跡(義時の墓)
- 永福寺跡(姫の前と結婚した歳に建てられ創建に携わる)
そして
- 頼朝のお墓
- 寿福寺(姉の北条政子が創建)
- 和田塚の石碑
- 鶴岡八幡宮の今宮(承久の乱の後鳥羽、順徳、土御門の三上皇が祀られている)
なども関連が深いです。
子鹿御前ぜひ歴史に思いを馳せながら、巡ってみてくださいね。
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