日テレ初のプロレス中継は面白すぎてCMを出し忘れた

日本で初めて本格的なプロレス・力道山、木村とシャープ兄弟の一戦が行われた蔵前国技館

【越智正典 ネット裏】日本テレビが初めてプロレスを放送する昭和29年2月19日、中継車が蔵前国技館(東京都台東区)に向かって千代田区二番町14番地の局を出発したのは昼の部の番組が終わってからである。

開局から6か月、放送は全日ではない。朝、昼、夜。テレビカメラは二台しかなく、技術部員がヨイショ!と中継車に積み込んだ。テレビカメラは大きく、重く、画を撮るのも体力勝負。そこで、学生時代にラグビーをやっていた男たちが技術部に配属されていた。気はやさしくて力持ち、我慢強いからである。

夜の部が始まり、中継放送開始。力道山、木村政彦対マイクとベンのシャープ兄弟。解説の田鶴浜弘さんが、赤いカーネーションをいつも胸ポケットに差しているアメリカの興行師、カーネーション・ルーダーロを前説。終わったとき、館内にゴングが鳴り響いた。

何度も話して来た不思議な「プロレスリング」が始まった。すると、蔵前国技館桟敷中段に往時のフィフティーンたちが造ってくれた放送席の横を「大変だあー、ケンカだあー」。営業部員近藤晃郎がリングに向かって突進して行った。このケンカを止めなければならない。仲裁するんだ。大ゲンカになりそうだ…。

それというのも、当時CMは、作っておいたフィルムを局から流していた。このときは中継現場の生カメラで番組提供スポンサーの商品を映していたのである。二台しかなかったカメラのうち一台は放送席うしろのマス席に。もう一台はリングサイドに。騒ぎが大きくなればCMを出せない。近藤は長嶋茂雄ではないが使命に「燃える男」だった。

記憶が遠くなっている。このタッグマッチで街頭テレビはまだそれほど盛況ではなかった。日本テレビは開局10日前の28年8月18日に、上野公園の西郷さんの銅像前や深川のお不動さんの境内など東京都内29か所、東京近郊13か所に街頭テレビを設置していた。

「皆さん、押さないで下さい。危ないです。あっ! 力道山、空手チョップ」「スリに気を付けて下さい。ご用心下さい」。こうアナウンスするのはこのあとである。

街頭テレビというと昭和11年のベルリン五輪大会のときにベルリン市内25か所に街頭テレビを設置していたと聞くが、長嶋茂雄も立教大学が試験で野球部練習休みの晩、新宿東口「山一證券」前広場にプロレスを見に来ていた。長嶋はのちのプロレス担当アナ、倉持隆夫が「西部開拓者」と叫んだルー・テーズが大好きだった…。

力道山、木村政彦の奮戦が終わった晩、近藤はねむれなかった。リングサイドに駆け付けたのはよかったが面白くて、みとれてCMを映すのを忘れたのである。翌朝、プロレス中継提供スポンサー「明治製菓」の京橋本社にあやまりに行った。CMを出すのを忘れました。申し訳ありませんと、大きなからだをちいさく折ると、玄関に飛び出して来た宣伝部長が握手を求め「コンちゃん、ありがとう、ありがとう、大成功だ。CMが出なかったって、気が付かなかったよ」

余談。この三戦を運動部長藤岡端の指揮でフィルム編集。ビデオはまだない。浜町のスタジオでアフレコ。60巻も売れた。買ってくれたのは市町村の教育委員会であった。 =敬称略=

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