「そして」「しかし」の使い方をなぜ間違えるのか 文と文も論理でつながっている

「そして」や「しかし」を入れる問題は、小学校の1年生から高校3年まで12年間出てきますが、高校3年生でも間違えることがあるようです。それは教え方が悪いからと、長年現代国語で教鞭を執ってきた出口汪先生は言います。ではどのように考えればいいのでしょうか。

文と文には論理的な関係がある

一文が要点と飾り、言葉のつながりなど、論理的な構造をもっているのと同じように、文と文にも必ず論理的な関係があります。

たとえば( )の中に「そして」とか「しかし」を入れる問題は、小学校の1年生から高校3年まで12年間やりますが、高3の子どもにやらせても、合ったり間違ったりしています。選択肢からよさそうな言葉を入れて文章を読んでみて、いけそうなのか違うのかということを行き当たりばったりで繰り返しているからです。

12年間やっても確実に正解を導けるようにはなりません。そのやり方が明らかに有効でないにもかかわらず、それに何の疑問ももちません。教える側もそれをおかしいとは思いません。これが今の国語教育の現状なのです。

どんな問題でも規則性に従って解いていけば、必ず正解するはずなのです。

文と文には論理的な関係があります。それを示す記号が接続語なのです。たとえば、具体的な話があって、それをまとめる時は「つまり」を使います。「つまり」は具体から抽象に移る際の接続語なのです。反対に、抽象的な話があって、次に「たとえば」とつなげて、その後に具体例がくる。これも具体と抽象の論理的な関係です。

あるいは、「一生懸命勉強した」、「だから」「成績が上がった」というのは因果関係です。「一生懸命勉強した」が原因で、その結果が「成績が上がった」です。「成績が上がった」、「なぜなら」「一生懸命勉強したからだ」も因果関係で、この場合原因・理由は「なぜなら」の後に来ます。前後の文の対立関係を表すときには、「しかし」「だが」「けれども」などの逆接の接続語がきます。

このように文と文との間にも、「具体と抽象」「対立関係」「因果関係」と、すべて論理的な関係があるのです。

まとまった文章も論理的にできている

さらに、まとまった論理的な文章には、必ず主張があります。不特定多数の読み手が対象の場合は、主張は自ずと抽象的になります。

たとえば、「私は、今日カレーライスを食べようか、ラーメンを食べようか」。これは主張とは言いません。前提として読み手は不特定多数ですから、私が何を食べようと不特定多数の誰かにとっては、どうでもいいことです。私が決めればいいだけのことです。

論理的な文章とはより多くの人に知ってもらいたい情報です。だから、抽象度が高くなるほど、より多くの人に有効な情報となります。たとえば、私が「論理とは何か」について書いたとしたなら、それは多くの人たちに必要な情報だから、主張と言えるのです。しかし、誰もがそのこと納得しているわけではないので、そこには論証責任を伴います。

たとえば、「戦争はよくない」ということを主張したとしましょう。「戦争はよくない」を100回書いたらどうでしょうか。こんな文章、誰も読みません。しかし、自分の悲惨な戦争体験を描いて最後に二度と戦争をしてはいけないと書いたら、みんな、ああそうだなと思います。自分の悲惨な戦争体験が具体です。まとまった文章には主張があり、そこに具体例として自分の体験やエピソード、さらには引用、比喩という飾りがついています。

このように論理的な文章は要点となる抽象的な部分と、それを説明する具体的な部分とで成り立っているのですが、論理がわかっていないと、子どもたちは要点を見ずに、よりわかりやすい飾りのほうに目が行ってしまうことになるのです。

論理的に「読む」「書く」「話す」

活字化された文章は、不特定多数の他者に向けて書かれています。筆者の立てた筋道を論理的に読むことによって論理力は身につきます。

論理的に読むことで情報を整理できるようになります。情報を整理することで記憶することもできます。記憶できないのは、バラバラの情報を整理できずに飲みこもうとしているからです。情報を整理できなければ考えることもできません。

記述問題で要約しなさいという問題があります。文章を読めば、言葉の数だけ意味があります。これを整理できなければ、たくさんの言葉の意味が頭の中でぐちゃぐちゃに存在することになります。自分の頭の中で整理できないことを人に伝えることはできません。だから設問に答えることができないのです。

それに対して、論理的に読んで理解できれば、頭の中で整理できるから、他人に説明することが可能なのです。つまり文章の意味を正しく理解し、設問の意図を正しく理解できるので、正解を導くことができるのです。すべては論理を意識して文章を読むことができるかどうかの違いなのです。

論理的に読むことができれば、論理的に書くこともできるようになります。さらに、論理的に読むことができれば、論理的に話すこともできます。

論理的な読解力を高めることで、「読む・書く・話す」というグローバル社会に必須のコミュニケーション能力を高めることができるのです。

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