98年前の鉄道被災地を訪ねて

3月のダイヤ改正で定期運用を終了する185系と駅名標を絡めようと欲張ったが、逆光になってしまいイメージ通りの写真は撮れなかった

 【汐留鉄道倶楽部】東日本大震災から10年。当時の鉄道の惨状は筆舌に尽くしがたいが、国土交通省東北運輸局のホームページで閲覧できる「よみがえれ!みちのくの鉄道」(2012年発行)には「甚大な被害を受けながらも、乗務員の適確な避難誘導や乗客の協力等により乗客に被害がなかったことは特筆すべきこと」とある。しかし、98年前の関東大震災では、相模湾を見下ろす根府川駅(神奈川県)で列車が駅もろとも海に押し流され、100人以上が死亡する大事故が起きていた。

 1923年9月1日、正午前。「事故の鉄道史」(1993)「関東大震災と鉄道」(2012)などによると、前年に1駅先の真鶴まで開通したばかりの熱海線(現東海道本線)根府川駅にさしかかった東京発の下り列車が激震で脱線転覆し、付近で発生した地滑りでプラットホームなどとともに約45メートル下の海に転落した。

 死者数(行方不明者を含む)は諸説あるが、ホームにいた乗客らも含めて110~130人とされる。また駅から真鶴方向へ300メートルほどのところを流れる白糸川では土石流(山津波)が大鉄橋をなぎ倒し、集落をのみ込んだ。

無人駅とはいえ、快速アクティーが停車する根府川駅。小田原市の散歩コースになっており、リゾートホテルの送迎バスも発着していた

 2月下旬の某日。根府川駅に降り立った。跨線(こせん)橋を上がって山側に進むと、改札口の手前に「関東大震災殉難碑」があり、悲劇を後世に伝えている。「関東の駅百選」に認定されている木造瓦ぶきの駅舎は、4年前に薄水色に塗り直されており、大震災の翌年から現存する建築物には見えなかった。

 駅からすぐに海岸へ下りる道はない。駅前の県道740号を白糸川橋梁(きょうりょう)に向かって少し歩き、急傾斜の細道を下る。「2代目」の赤いトラス橋は長さ約200メートル。見上げると巨大さに圧倒されるが、はるか下を流れる白糸川は拍子抜けするほど細く、水量も少ない。この渓谷を上流の山の崩壊で起きた山津波が時速50キロの速さで駆け下り、300人近くが亡くなったとは想像できなかった。

 大きな丸石が転がる波打ち際から100メートルほど内陸の国道135号を歩き、根府川駅の真下まで戻った。道路が海抜約15メートルで、駅が同45メートルだから、切り立った崖の奥に跨線橋がちらりと見える駅は30メートル頭上にある。

 国道は車がひっきりなしに往来し、沿道には海鮮料理店などが立ち並ぶ。今は行楽地となったこの場所を、蒸気機関車と客車8両、駅の施設のほとんどが海へ向かって滑り落ち、多くの命が失われたとは…。崖の表面の一部には、地下水がしみ出ているところがあった。その地下水の層の存在が、地滑りの原因とも指摘されている。

 ところで、白糸川橋梁はかつてブルートレインの定番撮影地だった。北海道の鉄道少年だった筆者は、今も手元にある写真集「特急列車快走」(1976)に載った「朝日を浴びて白糸川橋りょうを渡る〝あさかぜ〟」のモノクロ写真に心を躍らせたものだった。

トンネルの真上の撮影地から。写真左上の片浦小学校のあたりが、白糸川橋梁の向こうに跨線橋が見える根府川駅を襲った地滑りの起点とされる

 1991年に列車をすっぽり覆う防風柵が設置されたためサイドからの撮影はできなくなったが、みかん畑を見ながら坂道を上り、橋梁を俯瞰(ふかん)できる高台に行ってみた。はるか遠くに相模湾を望み、その手前には根府川駅、眼下には白糸川橋梁。そして線路は足元のトンネルに吸い込まれてく。

 98年前の地震発生時、いつもは被災した下り列車よりも先に根府川駅に入線する東京行き上り列車が、トンネルを通過中だった。そこがシェルター(避難所)の役割を果たし、先頭の機関車の乗務員は犠牲になったが、乗客は九死に一生を得た。もし、定時運転だったら…。紙一重の幸運と不運が生死を分けたとしか言いようがない。

 ☆藤戸浩一 共同通信社スポーツ特信部勤務

※汐留鉄道倶楽部は、鉄道好きの共同通信社の記者、カメラマンが書いたコラム、エッセーです。

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