「安全性アピール」の指針作り、古い原発には適用されず 「砂上の楼閣―原発と地震―」第4回

1966年に営業運転が始まる東海発電所の中央制御室で、発電スイッチを入れる瞬間を見つめる一本松・日本原子力発電社長(中央、椅子の左)=65年11月9日

 原発建設の許可を巡る全国初の本格的な訴訟となった伊方原発訴訟で、原発の耐震指針は存在しないと批判された。審査用の指針が初めて作られたのは1978年。伊方訴訟が提訴された翌年の74年に原子力委員会が検討を始め、その4年後にまとまった。国内最初の商用原発、日本原子力発電東海発電所が営業運転を始めてから既に12年がたっていた。(共同通信=鎮目宰司)

 ▽通産省が作った原案

 国内の商用原発が生まれる前の1956年1月、原子力政策の「元締め」として原子力委が誕生し、同年5月に発足した科学技術庁(現・文部科学省)が事務局となった。その後に登場する、発電を目的とした商用原発の安全規制は通商産業省(通産省、現在の経済産業省)が担当することになった。

原子力委員会の初会合に臨む(左から)藤岡由夫、湯川秀樹、正力松太郎、石川一郎、有沢広巳の各委員=1956年1月4日、首相官邸

 通産省と原子力委は効率化のため、慣例として合同で審査していた。それぞれに科学者がメンバーとなる審査組織を備えており、科学者たちはケース・バイ・ケースで判断を下していた。

 政府と電力会社の関係は今とはだいぶ異なるが、地震想定の考え方などをまとめる耐震指針自体は、審査を受ける側の電力会社が70年に「耐震設計技術指針」としてまとめていた。これとは別に、審査する側が用いる「耐震設計審査指針」を作るべきだと言い出したのは、通産省などで原発の耐震担当を務めた大野徳衛氏だったとされる。

 審査用指針は、原子力委が自前でまとめるべきものだったが、まず通産省が74年10月7日に指針案をまとめ、これを受けて原子力委は10月30日に指針策定を目指す「耐震設計検討会」の初会合を開いた。

 検討会の主査は、伊方原発訴訟で証人となった東京大の大崎順彦教授。通産省の案は「1次案」として配られ、大崎教授は「一応の案をみたので、これについて検討したいくこととしたい」と切り出した。

 ▽消えた「3~5年を目安に見直し」

 各省庁の寄り合い所帯として発足した科技庁は当初から通産省の影響が色濃い組織で、その後もこの関係は続いた。通産省が用意した指針案に基づいて進めることには、検討会メンバーも疑問を投げかけた。

 京都大の小堀鐸二教授は「パッシブ(受け身)にしか受け取れないのか。根本的な部分まで問題にしうるのか」と指摘し、通産省案に縛られずに検討するべきだとの考えを表明した。小堀教授はその後も、「継ぎはぎだらけの衣を急いで縫い合わせる作業」だと拙速を戒め、指針をまとめてからも、内容を見直すとルールで決めておく方がいいと提案している。

耐震指針策定に携わった小堀鐸二氏(小堀鐸二研究所提供)

 小堀教授の意見を反映した形で、策定してから「3~5年」を目安に指針を見直すとの案も一時的に登場したが、間もなく姿を消した。理由は次のようなことだと推測される。

 耐震関係の知見が増えていくのにあわせてルールを見直すのは合理的ではあるが、見直し期限を明記してしまえば、将来的に政府や電力会社の行動を制約して、面倒なことになりかねない。指針を見直して、もし原発の改造工事が必要となったら、発電量の不足や、安全性を巡る地元への説明など、さまざまに波及しかねない―。

 ▽新しい指針と古い原発

 74年9月に起きた原子力船むつ放射線漏れ事故などで、原子力の安全性への不信感が高まっていた。安全強化をアピールするため、政府は78年10月4日、原子力委の安全規制部門を原子力安全委員会として独立させた。耐震指針策定は、直前の9月29日。安全委発足とほぼ同時に、耐震をはじめとした各種指針類もこの頃に多くが整備されたのだった。

 問題は、新しい指針と古い原発の関係だ。指針をまとめる前に造った原発は、安全性能に問題はないとしても、必ずしも指針の要求を満たしているとは限らない。この古い原発の運転を認めるかどうか。

 ルールを適用できるのは、その後に造った原発だという原則から、政府は古い原発の運転を認めた。とはいえ、安全性は必要なので内々にチェックをしたと当時の関係者は証言する。

 審査指針策定を提唱した大野氏の後輩で、通産省などの審査官を務めた伊部幸美氏だ。指針に基づいて想定した大地震でも原発が壊れず、周辺に被害が及ばないことを電力会社に確認させたという。「(古い原発は)相当な余裕を見込んで造られていたので大丈夫だった」

旧通産省などで耐震関係の審査を担当した伊部幸美氏

 ▽「ぼろ」を懸念

 このように、運転を認めたまま新しいルールへの適合を確認するやり方は「バックチェック」と呼ばれる。これに対し、適合を確かめるまでは運転も認めない方式を「バックフィット」という。2011年の福島第1原発事故まで、主流はバックチェックだった。仮に、福島第1の津波対策をバックフィットさせていれば事故は起きなかったかもしれなかった。

 バックフィットしなかった理由はもう一つ考えられる。米国のメーカーが製造した福島第1原発1号機などの黎明期の原発だ。購入すればカギを回してすぐに運転できるという意味で「ターンキー契約」と呼ばれたように、建設は一から十までを米国側が担った。米国は原発先進国であり、日本側として安全性を否定しづらい部分もある。

東京電力福島第1原発1号機(写真中央右)、左は1969年5月に着工した2号機=1970年10月

 科技庁で大野氏の上司だった高嶋進氏は回顧録で「バックフィットを義務付けると逆に基準、指針類の制定が困難になる」と、78年の耐震指針策定などでバックフィットを見送った理由を説明している。

 黎明期の原発に「ぼろ」が次々と見つかるかもしれない。そうすると、指針類が作りにくくなるのではないか―。こう懸念したというのだ。(つづく)

「砂上の楼閣」第3回はこちら

https://this.kiji.is/739467290948894720?c=39546741839462401

第5回はこちら

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