【読書でたのしむアジア】アジアの中の政治と文学 タイ、チベット、トルコの小説家

長引くコロナ禍で海外旅行に行くことが容易でない今、本を通じてアジアを感じてみませんか?

書評家/ライターの長瀬海さんにタイ、チベット、トルコの文学事情についてお話をお伺いしました。


アジア圏の文学って不思議だ。アジアという空間には、ラテンアメリカ圏のように、共通する言語もなければ、伝統だって、文化だって互いに異なる。ゆえに、ひとことでアジア文学と言えども、それぞれの国の文学に共通するような作風、趣向はほとんどない。それなのに、アジアの小説を読んでいると、どこか、作者たちが同じような凛々しい目つきで、同じような何かを見つめているように思える。

僕は、その正体を探ろうと思って、2019年4月から一年間、「アジア文学の誘い(いざない)」というイベントを、書評家の倉本さおりさんとともに毎月開催してきた。各国の文学の翻訳者を招いて、一緒に、その国で話題となっている小説を読みながら、アジアの小説家が何を見つめているのかを確かめてきた。

そこでわかったことがある。作家たちの多くは、その濁りのない文学的な眼(まなこ)で、自分と「あるもの」との距離感を測っているのだ。何の? 政治との。そして、社会との。

タイの文学史の裏ではたえず血が流れている

例えば、先述のイベントにタイ文学翻訳者の福冨渉さんをお呼びしたとき、福冨さんがこんなことを言った。「タイの文学史の裏ではたえず血が流れている。」どういうことだろう。

福冨さんの著書に、現代タイ文学史を概観した良質なガイドマップとして読み応えのある『タイ現代文学覚書 「個人」と「政治」のはざまの作家たち』(風響社)がある。そのなかで、彼はタイの小説家たちが政治と個人の間で揺れ動きながら物語を生み出している状況を解説している。長らくタイでは政治的混乱が続き、収束を見せる様子がない。たび重なる軍事クーデターによって、タイの民主主義は傷つきながらも、何度も立ち上がってきた。そういう情勢のなかで、タイの小説家たちは、政治それ自体と個人の内面的な物語をいかに融け合わせるかを模索しているのだ。

その代表格といえば、ウティット・ヘーマムーン(1975年- )だろう。
2017年に発表された長編『プラータナー 憑依のポートレート』(福冨渉訳、河出書房新社)では、一人の芸術家の性的な衝動と政治的闘争を、タイ社会の騒乱を背景に描いている。終わりなき政治の季節を生きるタイという国にうごめく欲望を描いた作品だ。どこか初期の大江健三郎の作品を思わせるこの小説は、タイの社会の過去と未来を煌々と照らし、そこに生きる人々の咆哮(ほうこう)を物語にとどろかせる。

あるいは、こうした文学の潮流のなかで、あえて政治や社会と距離をとりながら、個人とは何かを突き詰める作家も出てきた。「プラープダー・ブーム」を巻き起こした21世紀タイ文学の最重要作家であるプラープダー・ユン(1973年- )だ。小説やエッセイの執筆にとどまらず、彼は映画の脚本を手掛け、音楽あるいはグラフィックデザインの分野でも活躍している。

彼について、福冨さんは「『個人』であることに価値を置いた新世代の文学者」と言い表している。『新しい目の旅立ち』(福冨渉訳、ゲンロン)というエッセイのなかで、彼は、社会から逃避するかのように孤絶した空間を求めてフィリピンのある島に向かう。しかし彼は、やがてじぶんという存在が社会と切り離せないものだということを突きつけられる。
  
タイのように、それによって生が抑圧され、人々の日常が脅かされる国にあっては、政治とは目を背けることができない現実そのものだ。そのことに自覚的なタイの小説家たちは、そうした社会のなかで個人として生きることとは一体何を意味するのかを、物語を通して問い続けている。政治と文学は複雑に絡まり合いながら、タイという国の〈いま〉を映し出しているのだ。

社会の腐敗を物語に写し取るチベットの人気作家

ツェラン・トンドゥプ『闘うチベット文学 黒狐の谷』(海老原志穂・大川謙作・星泉・三浦順子訳、勉誠出版)

政治や社会と真摯に向き合い、そこに生きる人間を見事に捉えた小説家が影響力を持つのはチベットでも同じ。チベットで広く読まれているのは、政治的動乱が収まったあとの1980年代に筆を執った、いうなれば「ポスト文化大革命」の小説家の作品だ。

なかでもツェラン・トンドゥプ(1961年- )は人気がある。社会的・政治的な腐敗を物語に写し取り、諷刺という技法で批判する彼の作風は、チベット文学シーンで高い評価を得ている。邦訳に『闘うチベット文学 黒狐の谷』(海老原志穂・大川謙作・星泉・三浦順子訳、勉誠出版)があるので是非、手にとってほしい。

また、チベットの若くて力のある小説家、ラシャムジャ(1977年- )も重要人物だ。彼の代表作『雪を待つ』(星泉訳、勉誠出版)は、まさに新しい世代による「ポスト文化大革命」小説の傑作。農村と都市を対比的に描きながら、故郷を離れて個人として生きる主人公たちが叙情豊かに描かれている。

トルコのノーベル文学賞作家はあえて政治から離れた

最後に、アジアの最西端に目を向けてみよう。
トルコの文学も国内の政治的な動きと呼応しながら書かれてきた。とりわけ1971年のクーデターは文学者たちに多くの影響を与えたとされる。

しかし、そんななかで政治とあえて距離を置いた小説家がいる。ノーベル文学賞受賞作家のオルハン・パムク(1952年- )だ。彼は、政治小説を書くことに躍起になっていたトルコの文学者たちを尻目に、極力、政治性を脱臭した小説を紡ぎあげてきた。政治的対立ではなく、文化的対立を。イスタンブールという土地の異質性を。

でも、そうやって、オルハン・パムクが政治性抜きの物語を紡ぎあげることができるのは、彼が政治というものの引力の強さをよく知っているから。政治から遠く離れて物語を書き続ける彼の眼差しは、その実、政治というものを鋭く、厳しく、射抜いているのだ。

*本稿執筆にあたって、福冨渉『タイ現代文学覚書 「個人」と「政治」のはざまの作家たち』(風響社、2017年)、チベット文学研究会編『チベット文学と映画制作の現在 セルニャ(vol.1〜6)』(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所)、宮下遼「トルコのポスト・モダニズム文学 : オルハン・パムクとその周辺」(『イスラーム世界研究6』京都大学イスラーム地域研究センター)を参考にしました。

Edited:岡崎暢子(韓日翻訳、フリー編集者)

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