『灰の劇場』恩田陸著 女性2人の死への軌跡

 各章の冒頭に「0」か「1」か「(1)」の記号が置かれる。3種類の物語が次々に現れ、静かに、重層的に、じわじわと進む。暗く不穏な空気をまとって。

 「0」の断章は、恩田陸という著者本人を思わせる小説家の「私」が語り手。2014年頃がスタート時点だ。「私」には忘れられない事件がある。作家デビューして間もないころ、新聞で見た短い記事。年配の女性2人が橋の上から飛び降り自殺したという。2人は大学時代の友人同士で、一緒に住んでいた。名前は載っていなかった。

 なぜ2人は一緒に住んでいたのか。2人に結婚の経験はあったのか。どんな仕事をしていたのか。なぜ死のうと思ったのか…。さまざまな疑問が浮かぶ。その記事は「棘」となって「私」に刺さった。

 時が過ぎ、やがて編集者が記事を見つけて持って来る。それは1994年に起きた。2人の女性が東京都奥多摩町の北氷川橋から飛び降りた。1人は45歳で、もう1人は44歳。東京の私大時代の同級生だったという。

 「私」はこの事件を下敷きにしたモデル小説を書こうと決意する。でも、どうやって? 顔も名前も知らないのに。動機も分からないのに。それでも「私」は、書き始める―。

 「1」の断章は、その小説そのものである。つまり本書はメタフィクションなのだ。「1」は小説内小説であり、そこで語られるのは、MとTというイニシャルで登場する女性2人のたどった道である。

 出会いが記され、大学卒業後の2人の生活がつづられてゆく。Mは仕事に邁進し、Tは結婚するが、その結婚が破綻する。2人は再会し、同居に至る。日常があり、絶望が顔をのぞかせる。日々の生活の中に、死へ向かうきっかけが潜んでいる。

 そして「(1)」という断章は、この小説内小説が出版された後の世界を描く。

 小説の舞台化が決まり、作者である「私」は出演者のオーディション会場にいる。

 イニシャルだけで顔を与えなかった2人を、顔も肉体もある俳優が演じることに不安や違和感を覚える「私」。舞台化とは、具体化であり、同時に抽象化でもある。演劇の本質が語られていく。

 これら三つの断章により、読者はMとTが過ごした時間が降り積もっていくさまを感じることになる。小説が生まれていく過程に立ち会い、それが舞台化されることの恐怖や高揚をともに体験する。虚構と現実の間を、そして生と死の間を往還し続ける。

 「(1)」に、死んだ2人の女性を「私」が幻視し、その声を聞く場面がある。

 「頼んでない/望んでません/なんの権利があって/どんな下世話な想像をしてるんでしょうか/言いたいことなんかない/告白したいことなんてない」「想像しないで/あたしたちの顔を見ないで/見当違い/勘違いしてる」

 それは「書かれる者」から「書く者」に対する強烈な拒絶であり、魂の叫びだ。自分の生きた証しを残したいと思う人、自分の思いを知ってほしいという人もいるだろう。だが、自分を解釈しないでほしい、消費しないでほしいと願っている人もいるはずだ。いや、ほとんどの人が、その両方の欲求を抱えているのではないか。

 本書を読み終わった後、通信社記者である私は、この2人の自殺について調べられる範囲で調べてみた。私がたどり着いた記事には2人の名前があり、動機めいたものも記されていた。

 それはしかし、本当のことなのか。自ら死を選ぶ理由など、誰が分かるというのか。

 恩田陸という一人の作家が、長い歳月を費やして考え尽くした2人の死への軌跡。それを想像することに罪悪感を覚えながらも、小説という表現に結実させたことの深さと重さ。どうかじっくり味わってほしい。

(河出書房新社 1700円+税)=田村文

© 一般社団法人共同通信社