原子力安全に必要な「哲学」とは 動きだす耐震指針改定 「砂上の楼閣―原発と地震―」第6回

放射性物質漏れを起こした米ペンシルベニア州のスリーマイルアイランド原発の全景(矢印が事故のあった原子炉がある建物)=1979年3月(UPI・サン=共同)

 1995年1月17日、都市部を襲った直下型地震、阪神大震災は日本中に衝撃を与えた。だが政府は、策定から約20年たっていた原発の耐震指針については「時期尚早」と改定を先送りする。指針の策定段階では「3~5年」で見直す案があったものの、大地震を経験してもなお、本格的に見直しに取り組もうとする動きは見られなかった。だが、そこに「原子力安全には哲学が必要」と考える一人の男が現れる。政府内に指針改定に向けた動きが始まった。(共同通信=鎮目宰司)

 ▽決断

 指針改定にかじを切ったとされるのが、98年4月に原子力安全委員会の委員長に就任した佐藤一男氏だ。96年に行われた東北電力東通原発1号機(青森県)と中部電力浜岡原発5号機(静岡県)の建設を前にしたパブリックコメント(意見公募)や公開ヒアリングで指針の妥当性が問われ、改定を求める意見や質問が相次いだことがきっかけだったようだ。

史上最悪の事故を起こしたチェルノブイリ原発(タス=共同)

 佐藤氏は日本原子力研究所(現・日本原子力研究開発機構)出身で、米スリーマイルアイランド原発事故(79年)や旧ソ連・チェルノブイリ原発事故(86年)も調査した、原子力安全研究の第一人者だ。80歳を超えた佐藤氏は取材にこう語った。「指針は簡単に変えられるものじゃない。だから、阪神大震災後の改定は見送ったんでしょう」

 佐藤氏は当時、安全委事務局の科学技術庁(現・文部科学省)には荷が重いと考えたのか、通商産業省(現・経済産業省)の資源エネルギー庁に協力を要請した。エネ庁は電力会社でつくる電気事業連合会のバックアップを受けて指針改定の検討を内々で始めた。

 ▽リスク

 佐藤氏は「原子力安全には哲学が必要だ」との持論があり、指針に反映することを望んでいた。「論理体系のないまま、思い付いたところだけ直すような改定では駄目だ」と言い切る佐藤氏。安全とは何かを深く掘り下げて議論することなく、それまでの安全審査が行われてきたことに「憤懣やる方ない思い」を抱いていたという。

原子力安全委員長を務めた佐藤一男氏

 佐藤氏の「哲学」とは何なのか。地震などの災害リスクは考えればきりがないし、ゼロにすることもできない。原子力エネルギーを利用するには、ある程度のリスクを受け入れる覚悟がいると語った。「百点満点はあり得ない」と、腹を据えて掛からなければならないということのようだ。

 十数年後に経験することになる東京電力福島第1原発事故を招いた地震、津波は佐藤氏の言う「受け入れられるリスク」だったのか。このリスクの存在は事故が起きるまで国民に広く知らされることはなく、受け入れられるかどうかが議論されることもなかった。

 ▽対立

 99年7月、原子力発電安全企画審査課長に本部和彦氏が就任するとエネ庁は本格的に動きだした。本部課長は佐藤委員長と面会して改定の意思を確かめると、2000年1月に非公式の検討会を立ち上げた。

 原発耐震審査の実務に詳しい高島賢二氏を自らの右腕として、省内の別の局から連れ戻し、審査課の統括安全審査官に据えた。本部課長と高島統括の両輪で強力に推進しようとした。だが、2人は原子力安全に対する哲学が大きく異なっており、非公式の検討会で対立が表面化してしまう。

資源エネルギー庁の原子力発電安全企画審査課長を務めた本部和彦氏

 対立点は、原発を設計する際に用いる想定地震を超える大地震を考慮するかどうかだった。想定を超える超巨大地震の可能性はゼロではない。高島氏は、安全の余裕を持たせることでゼロにならない危険性に対応しようとする伝統的な耐震審査の考え方を支持していたが、本部氏は想定超えであっても可能性の高い低いに応じて対策をとっておくという考え方に変えるべきだと思っていた。

 通産省内でも本部氏の考え方への懸念は強かった。「急進的すぎるので、審査実務に反映できないのではないか」「想定を超える地震が起きる可能性を政府が認めたことになり、運転停止を求められた裁判で不利になるのではないか」。こうしたものだったようだ。

 従来手法を合理化、改良することを目指していた高島氏との折り合いは付かず、非公式の検討会は1年程度で終わる。指針改定は仕切り直しとなり、公開で行われる原子力安全委員会の耐震指針検討分科会に委ねられた。各分野の専門家らを集めた分科会の議論はなかなか収束せず、改定が実現したのはさらに5年がたった2006年のことだった。

 ▽津波

 失敗した非公式検討会だが、高島氏によって重要な項目が指針に追加される流れがつくられた。津波対策の明記だ。電力会社は、指針に明記されていないと積極的に対策に取り組まない。豊富な審査経験から、高島氏はそう感じ取ったという。

経産省原子力安全・保安院などで安全審査を担当した高島賢二氏

 高島氏の問題意識が発端となって、06年の改定指針には津波対策が明記された。だが、想定を超える大津波も考えて対策しなければならないとまでは書かれず、東電に福島第1原発の津波想定見直しを強く迫ることはできなかった。もしも、高島氏と本部氏の哲学をうまく融合する形で改定が実現していたら―。あるいは、11年の福島第1原発事故は起こらなかったかもしれない。(つづく)

「砂上の楼閣」第5回はこちら

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第7回はこちら

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