失敗続きの歴史に学ぶ 福島第1原発事故の病根、今も 「砂上の楼閣―原発と地震―」第10回(最終回)

煙を上げる福島第1原発の衛星写真=2011年3月14日(デジタルグローブ提供・ゲッティ=共同)

 未曽有の大惨事となった東京電力福島第1原発事故は、なぜ防げなかったのか。原発と地震、津波の歴史をたどれば「決められていないことはやらない」「義務でなければ先送りする」という行動を取った関係者が多くいた。最低限の手続きやルールさえ守っていれば文句は言われない―という保身。大組織によく見られるこうした体質はリスク管理とは相いれないものだ。事故の病根は、今も残されている。(共同通信=鎮目宰司)

 ▽無知と反省

 2011年3月12日、東京・霞が関にある経済産業省別館の会議室。かつて担当していた原子力安全・保安院の記者会見に応援で駆けつけた私は「炉心溶融(メルトダウン)」という言葉を聞いて耳を疑った。福島第1原発で、そんなことが起きるとは―。メモを取りながらも頭は働かない。誰かがもう一度「メルトダウンでしょうか?」と念を押すまでの数分間、ただぼうぜんとしていたような気がする。

福島第1原発1号機の状況を説明する、原子力安全・保安院の担当者=2011年3月12日午後、経産省

 保安院担当時代に取材した政府関係者は「原子力防災は、一般の防災よりも詳しく調査した結果に基づいて行っている」と、胸を張って説明していた。電力会社も同じだ。一般向けの防災想定には活断層の調査や研究の結果を、曖昧なものも含めて反映されているが、ふんだんに費用を使う電力会社の調査はもっと精度が高く、信頼できるという意味だった。そんなばかなと思いつつ、心の半分では、巨大な組織を誇る電力会社は傲慢ではあっても、いいかげんなことはやらないだろうと信じていた。

 記者になって約25年。その大半の15年近くを原発や地震の取材に費やしてきたが、大震災後の10年は自分の無知を発見する日々だった。

 ▽歴史を振り返る

 1973年に始まった原発建設の許可を巡る全国初の本格的な訴訟、伊方原発訴訟では、当時の原発耐震審査にルールが無いことが問題視されたが、訴えた住民側は敗訴した。その上、判決で「審査に合格すれば安全」という神話が生まれてしまう。

 78年に政府が初めて策定した原発耐震指針。日進月歩の科学的な知見を反映させるために定期的な改定が必要だと重々分かっていながら、その仕組みをつくらなかった。また、運転に支障が出るのを避けるため、新しい指針を古い原発に厳格に適用しようとはしなかった。

 95年の阪神大震災で指針改定を求められたのに、政府は先送りした。電力会社は古い指針を最大限利用して、明記されていない安全対策を免れようとした。

 2006年9月、約30年ぶりに改定された耐震指針には、初めて津波対策が明文化された。運転中の原発はきちんと対策が取られるまで運転を認めないという運用もあり得たが、電力会社と保安院は一体となって原子力安全委員会に「圧力」をかけ、運用を骨抜きにした。

福島第1原発3号機の原子炉圧力容器の下部で見つかった溶融核燃料(デブリ)の可能性が高い塊(左上、国際廃炉研究開発機構提供)

 そして東電は、福島第1の大津波対策を先送りし、11年3月の事故で原発が爆発しても「想定外だった」と居直った。

 ▽もう一つの安全神話

 取材で、原発の地震想定が甘いのではないか―などと指摘すると、電力会社や政府の人から度々聞いた言葉がある。「でも原許可は有効なんです」。つまり過去に許可済みで、それは覆らないのだという意味だ。政府は、よほどのことがない限り、いったん出した安全のお墨付きを取り消すことはない。「お上」のやることに誤りはないという、もう一つの安全神話だ。

 これは電力会社にも都合が良かった。お墨付きが取り消されない以上、本当は講じなければならない安全対策であっても「自主的な取り組み」にできる。その気になれば、大地震や大津波への対策を好きなだけ先送りすることすら可能だったのだ。

 東電最大の柏崎刈羽原発は07年の新潟県中越沖地震で長期間、停止した。電力の安定供給で当てにしていた柏崎刈羽が止まった以上、福島第1、第2原発の計10基か火力発電所で補わなければならない。だが、大津波の対策を進めようとすれば福島の2原発も動かせなくなる可能性が高い。誰も本当に起きるとは思っていない大津波に備えるためだけに10基を停止させる必要はない―。当時の東電経営陣はこう考えただろう。

地震の影響で地割れや道路の崩壊が見られる東京電力柏崎刈羽原発の敷地内=2007年7月

 巨大な影響力を背景に大津波の想定を先送りし、それを保安院にのませるよう動いたが、法的責任の有無は別として、それ自体はルールに明白に反していたわけではない。「少々荒っぽいが、しょうがないだろう」。そう思っていたのではないか。

 ▽ルールと安全

 福島第1原発事故後、新設された原子力規制委員会は「世界で最も厳しいレベル」(田中俊一・前委員長)の基準で原発の再審査を進めてきた。基準は安全委、保安院時代よりもずっと厳しくなったが、規制委は「審査に合格すれば安全」とは言おうとしない。そこには将来、事故が起きたとき責任を追及されないようにする組織防衛の思惑が見え隠れする。

 どんなに厳しい基準や指針、ルールにも必ずほころびがあり、形骸化の危険もある。専門家が加わっていたかつての審査と違い、役人が中心となる規制委の審査はルールを前面に押し出し、非常に細かくチェックするようになった。これだけで原発の安全を事前に保証することはできないのは当然だ。だが、規制委が〝審査合格〟とすれば、多くの人は「この原発は安全なんだ」と信用する。それを知ってか「世間が勝手に思い込んでいるだけだ」と、規制委は見て見ぬふりをしているようにも思える。

福島第1原発=6日

 福島第1原発事故に限って言えば、政府・地震調査委員会が02年に出した長期評価で大津波を警告した際に、保安院が東電に試算を命じるとともにこれを公表しておけば、その後の進展は大きく違っただろう。だが、しかし、事故は長年にわたって、関係者が積み上げてきたミスや怠慢、無責任で形成された土壌から生まれた。その意味では、起こるべくして起こったのだ。

 原子力安全委員会の委員長を務めた佐藤一男氏は事故を振り返ってこう語った。「福島第1で起きたことはね、可能性は知っていた。だけど、(東電は)起こると思いたくなかったので、予測しなかったってことでしょう。危険をどこまで考えれば十分か。これは難しい。予測できないことを考えれば切りがないんだから」。これが〝原子力安全〟の本質である。

「砂上の楼閣」第9回はこちら

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