福島原発で被災、東電社員だった車いすバスケ主将 東京パラリンピックへ壮絶な体験を聞く

2018年ジャカルタ・アジアパラでボールを追う豊島選手(共同)

 あの日の恐怖と衝撃は決して忘れることはない。「最悪の事態」も覚悟した壮絶な体験は記憶が曖昧な部分も残るが、競技人生を突き動かした原点でもある。東日本大震災が起こった10年前の3月11日。車いすバスケットボール男子日本代表主将の豊島英選手(32)=WOWOW=は、東京電力社員として福島第1原発で働いていた。このほど震災から10年の節目で共同通信のインタビューに応じ、新型コロナウイルス感染症の影響で1年延期された東京パラリンピックに向け「開催理念の復興五輪・パラにも重なる部分が気持ちの面で大きくなってきた。今の復興の姿を世界に発信して、東北にメダルと笑顔を届けたい」と思いを語った。(共同通信=田村崇仁)

 ▽1号機で水素爆発、故吉田所長の姿も

 震災発生時は原発の事務本館でいつも通り経理の仕事中だった。最初は「また地震か」というぐらいの感覚だったが、徐々に今まで味わったことのない大きな揺れに「恐怖と身の危険を感じて」車いすから降り、慌てて机の下に隠れた。「現実に起きている現象なのか不思議な感覚だった」。天井パネルが落下し、混乱した現場。自力で移動できず、同僚におんぶされて敷地内の免震重要棟に一時避難したが、事態は深刻さを増した。翌日午後3時36分には1号機で水素爆発が起きた。わずか200メートルの距離。津波により冷却機能を失った1号機がメルトダウンを起こしたためだった。「音があったか覚えてないけど、建物が大きく揺れた衝撃は分かった」

 日常が一変し、殺気立った現場に原発所長だった故吉田昌郎さんの姿もあった。骨組みだけ残し吹き飛んだ原子炉建屋。窓に鉛のボードが貼られた「最前線」の免震重要棟はまともな食事もなく「ビスケットがあるぐらいで爆発が続いて出られなくなったら、食事も尽きてしまうんじゃないか。何時に寝て何時に起きたかも全然覚えていない」と不安に震える日々。事故対応に追われる同僚社員を横目に「何もできない無力さを感じた」という葛藤もあった。

4カ国対抗の韓国戦でシュートを放つ豊島選手=2019年9月

 ▽発生4日目、避難中に3号機爆発

 地震発生4日目、防護服を着て敷地外へ車で避難中に今度は3号機が爆発した。立ち上がる煙と爆発音の恐怖と闘いながら双葉町から南相馬市へと移動したが、途中で車がガス欠に。それでも音信不通だった家族とようやく連絡が取れて三春町で合流してガソリンを入れ、いわき市の実家にたどり着いたのは15日明け方の3時だった。

 周囲に放射性物質が放出され、半径20キロ圏内には避難指示が発令。「目に見えない恐怖なので、不安だったけど、少しでも離れた方が安全かなと感じた」と振り返る。

 ▽背中押した「なでしこ」の世界一、東電退社

 だが実家に戻ると「被ばくの可能性があるのかなと警戒心が先行して外にも出歩かず、今のコロナと同じ自粛生活」という日々。豊島の所属するチーム宮城MAXも活動休止に。4月には水戸支社に異動になり、中学2年で出会った車いすバスケとの距離は遠くなった。「避難生活で住民が苦労しているのにバスケなんてしていいのか」。震災を境に東電社員としても「肩身が狭かった。バスケをしていたとも言いにくいし、原発で働いていたといいにくい時期もあった」と胸中は複雑だった。

 背中を押してくれたのがサッカー女子日本代表「なでしこジャパン」の活躍だ。震災から4カ月後、ワールドカップ(W杯)初優勝を遂げたメンバーに東電の先輩社員、鮫島彩選手(33)もいた。「地元への恩返しはスポーツ選手ができることだと気づいた。チームが仙台だったので、働きながらだと中途半端になってしまう。一歩前に進むことができた」。震災から半年後、夢だった翌年のロンドン・パラリンピックを目指し、今も所属する宮城MAXで競技に専念するため東電の退社を決断した。

練習中に笑顔を見せる豊島選手=2015年11月、仙台市

 ▽東京大会は3度目のパラ集大成

 2012年ロンドン、16年リオデジャネイロ・パラリンピックの両大会は9位。武者修行でドイツでもプレーを経験した。けがや手術の苦難を乗り越え、被災地のチームとして沿岸の学校で講演するなど、被災者支援にも励んできた。

リオ・パラリンピックで攻め込む豊島選手=2016年9月(共同)

 主将の重責を担う東京パラリンピックは3度目の集大成の舞台となる。「震災もそうだが、コロナも経て開催された際には歴史に残る大会になると思う。やる、やらないという部分でここまで応援されないパラはない。それでも自分は東北の選手であり、被災した選手でもあり、先が見えない一日一日の繰り返しはコロナでも経験した。反対意見の人たちにも、やってよかったと言ってもらえるような大会になることが一番。明日につなげる気持ちがあれば、5年後、10年後につながっていく」と未来を思い描いた。

オンラインで取材に応じる車いすバスケットボール男子日本代表主将の豊島英選手

 豊島 英(とよしま・あきら)生後4カ月で患った髄膜炎の後遺症で車いす生活に。中学2年で車いすバスケットボールを始め、福島・平商高卒業後、東京電力に入社。09年から宮城MAXでプレー。12年ロンドン、16年リオデジャネイロ・パラリンピック代表。日本選手権は11連覇中で大会MVPに3度選出。ポジションは司令塔のガード。32歳。福島県出身。

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