津波に飲まれた校舎は震災遺構に 「あづまっぺ」から再スタートした気仙沼向洋野球部【#あれから私は】

震災遺構となっている旧校舎をバックに小野寺三男氏(左)と川村桂史氏【写真:高橋昌江】

震災当時の監督・川村桂史氏と現監督・小野寺三男氏は“盟友”

東日本大震災から11日で10年が経つ。海から200メートルほどの距離にあった宮城県気仙沼市の気仙沼向洋は校舎4階まで津波に襲われた。今、その場所は気仙沼市の震災遺構となり、「3・11」の記憶を伝えている。2018年7月には、元あった場所から1キロ内陸に新校舎が完成し、新たな歩みをはじめている。あの時、何があったのか。ともに卒業生である、当時の監督の川村桂史氏(現本吉響副部長)と、現在指揮を執る小野寺三男氏に聞いた。

「もう、終わりだ」。2011年3月11日、午後3時40分頃。4階建ての気仙沼向洋の屋上には教職員と校舎の改修工事に伴う工事関係者、計50人ほどがいた。当時、野球部を指導していた川村氏は「あれが来たらもう、この屋上も無理だね」とつぶやいたという。

元の校名は気仙沼水産。校舎と海の距離は約400メートル。校舎4階の25センチほどまで浸水し、沖では巨大な津波が今にも襲いかかろうとしている。だが、その時。「多分、ですよ。沖から来る大きな波と引き波がぶつかって、砕けたんじゃないかなと思うんです。それで、『お、助かった』と思いました」。屋上ですらダメかもしれないと思った瞬間の奇跡だった。

朝日が反射する海が眩しい。10年前に暴れた海はあまりにも穏やかだ。「10年ですもんね。普通、10年ってすごく長い期間だと感じると思うんですけど、あっという間でしたね」と川村氏。2009年に川村氏にチームを引き継ぎ、17年に再びバトンを受け取った小野寺氏が「年を取ってくるとね、早いんだよ」と笑う。

7歳違いの2人は小、中、高校、大学、そして職業まで同じだ。気仙沼市の階上地区で育ち、野球にのめり込んできた。先輩の小野寺氏は中学卒業後、進学校に進もうと考えていたが、のちに一迫商を選抜大会(05年、21世紀枠)に導くことになる熊谷貞男監督に声をかけられ、「この監督、面白いな」と気仙沼水産(06年から気仙沼向洋)へ。アンダースローの右投手、4番打者として活躍し、日体大を経て教員になった。大学を卒業して7年目に母校に赴任。以降、14年に渡って野球部を指揮した。

2010年宮城大会は準優勝、その翌年に悲劇が…

中学時代から体育教員を目指していた川村氏も進学校に進むつもりでいたが、小野寺氏らが気仙沼水産から日体大に進んでいることを知り、進路を決めた。一浪し、一般受験で日体大に合格。3年からバッテリーコーチとなり、のちにロッテの守護神として活躍する同級生の小林雅英氏(社会人野球エイジェックコーチ)の状態をチェックするのが役割だった。あの日の夕方。浮遊物が漂う海に囲まれた屋上で川村氏は携帯電話の着信に気づいた。「最初につながった電話が小林雅英なんです」。

川村氏は09年から母校を率い、その夏に宮城大会で6年ぶりの4強入り。準々決勝は0-2から9回に同点に追いつき、延長10回サヨナラ勝ちだった。翌10年は初戦で秋季県大会優勝の古川学園を破ると、準決勝では名門・東北を6-5で下し、初の決勝進出を果たした。仙台育英との決勝は竜巻警報が発令され、雷雨で2度も中断。1-28で夢敗れた。

「ベスト4に入った時は(小野寺)三男先生が育てた子たちを早くに負けさせるわけにはいかないと思っていました。先輩からいただいたバトンをつなぐことができて嬉しかったですね」。“夏の気水(気仙沼水産)”の伝統をつなぎ、4強、準優勝ときた。さあ、目指すものはあと1つ。そんな時に発生した「3・11」。凄まじい揺れは津波を引き起こした。

海からバックネットまで約200メートル。さっきまで打撃練習し、自身も青春を燃やしたグラウンドに「重低音を響かせながら」(川村氏)海水は入ってきた。二波、三波……。上がる水位。「これは現実なんだろうか」と、その光景を屋上から見つめるしかなかった。巨大な物体が迫り、「あれがぶつかったら、うちの学校、もつのかよ」と発した記憶がある。それは「冷凍工場の激突跡」として南校舎に爪痕を残している。

その頃、小野寺氏は勤務する本吉響にいた。気仙沼向洋との距離は13キロほど。校舎を点検するなどした後、車のカーナビでテレビをつけると津波の映像が飛び込んできた。だが、学校は海から2キロ以上離れ、高台にある。この辺りは大丈夫だと思っていたが、校舎の2階から「下まで来ている!」と聞こえた。

「嘘だべ!?」。確認すると、学校の側を流れる津谷川から水が溢れていた。家族と電話がつながらない中、小野寺氏にとって初めて通じた電話が川村氏だった。「どごにいだの?」と聞くと、「屋上です」。高校球児として白球を追い、長年、監督もしたグラウンドが津波に飲まれていることを告げられた。

新校舎に掲示されている震災当時の様子などが分かる展示物を見る小野寺氏(左)と川村氏【写真:高橋昌江】

2011年4月10日、部員たちに野球道具が渡された

2011年3月28日、小野寺氏は気仙沼向洋を訪れた。変わり果てた校舎にグラウンド。かまぼこ形状の屋根も床もさらわれていった体育館。あの日、校舎で一夜を過ごした教員たちが脱出のために使用した船を写真に収めた。川村氏と会ったのは、本吉響の生徒の安否確認で避難所を回っている時。2人の母校・階上中で避難所の運営に携わっていた。

4月、小野寺氏の耳に「もう野球ができないんじゃないか」と言っている生徒たちがいるという情報が入った。これはなんとかしないといけない、と思った。「あづまっぺ(集まろう)」。東北各地、日本全国から野球道具も届いていた。

「まずは一度集まって、元気な顔を見て動いてみよう」と、4月10日、自身が監督をする本吉響、全部員がスパイクのまま階上中に避難して無事だった気仙沼向洋、気仙沼西(18年閉校、気仙沼と統合)の部員を集め、野球道具を渡した。学校が再開すると、気仙沼向洋は本吉響、気仙沼西、米谷工(15年閉校、他校と統合し、登米総合産業)に分かれて授業が行われ、放課後は本吉響に集合し、練習した。

7月10日。気仙沼向洋と本吉響は同じ日に宮城大会1回戦を迎えた。黒川と戦った気仙沼向洋は1-2の5回、一挙5点を挙げて逆転。6-2で勝利した。その試合を終えると、すぐにバスに乗り、東北福祉大学野球場から15キロほど離れた仙台市民球場へ。本吉響の試合が始まっていた。

小野寺氏は「点数を離されていたのが、気仙沼向洋が来てから盛り返した」と笑う。「ガンガン、歌いました」と川村氏。部員数が少ない本吉響にとって、応援歌のある後押しは初めて。力がみなぎった。5-8で白星はつかめなかったが、小野寺氏は「いい試合でした」と振り返る。実は、気仙沼向洋が4強入りした09年も決勝に進出した10年も、本吉響の部員たちはスタンドで応援していたのだった。

2010年の宮城大会準優勝の二つの盾(左が2011年に贈られたもの、右が2010年に贈られ瓦礫の中から見つかったもの)【写真:高橋昌江】

新校舎が2018年7月に完成、野球部は専用球場で練習に励む

気仙沼向洋は11月に仮設校舎が完成し、気仙沼西のグラウンドで練習を続けた。17年4月、本吉響の小野寺氏が8年ぶりに気仙沼向洋へ、気仙沼向洋の川村氏が本吉響へ入れ替わる形で異動した。仮設校舎は約7年半使用され、新校舎が完成したのは18年7月。同時に広々とした専用球場で野球ができるようになった。その秋、気仙沼向洋は小野寺氏のもと、12年以来となる秋季県大会に出場。強豪・利府から勝利を挙げた。

旧校舎は震災遺構となり、昨年3月10日、「気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館」がオープン。3階に突っ込んだままの車、散乱した書籍、津波に押し流されたロッカーには生徒の作業着が入ったまま。奥行きある箱のようなディスプレイのパソコンが転がっている。津波で破壊された校舎は時が止まっているが、野球場があった場所はパークゴルフ場に姿を変え、人々の笑い声が響く。屋上から見える海は、牙をむいたと思えないほどきれいだ。

小野寺氏の気仙沼向洋は12人の3年生が卒業し、1、2年生で14人。新入生の入部を待っている。現在は副部長を務める川村氏の本吉響の選手は1年生がゼロ、2年生が3人。しばらく連合チームが続いている。小野寺氏が言う。

「川村先生が宮城大会決勝まで行ったので、その上を目指してやっていきたいと思っています。ただね、うちだけよければいいわけではない。私は昔からこの地区を盛り上げていきたいと思っているんです。志津川も本吉響も気仙沼も東陵も。石巻地域も内陸の地域も、(少子化などで)どこの学校も大変。でも、何とかしたい。新型コロナウイルスや震災の影響で大変ですが、何とか盛り上げたいと思っています」

宮城県では今年、公立高校入試(全日制)の受験倍率が初めて1倍を下回り、状況は厳しいが、川村氏も「三男先生と同じ思いですよ」と力を込める。11年夏の宮城大会開会式。気仙沼向洋は前年に手にした準優勝盾を再び、贈られた。流失した“本物”は瓦礫撤去の際、業者が発見。今、新校舎の昇降口を入ると、2つの準優勝盾が並んでいる。人口の減少と向き合いながら地域の活気を目指して――。気仙沼向洋は航海を続けていく。(高橋昌江 / Masae Takahashi)

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