仙台一、OBが誓った“約束の10年目” 現役部員らと黙祷「俺らの分も頑張れ」【#これから私は】

3月11日に黙祷する仙台一の部員たち【写真:高橋昌江】

佐藤颯大主将「今年の春は東北大会に出場し、夏は甲子園を目指したい」

東日本大震災から10年を迎えた11日、仙台一(宮城)は海から約3キロの距離にあるグラウンドで黙祷を捧げた。そこは10年前、津波が押し寄せ、瓦礫だらけになった場所だ。駆けつけた当時の部員から10年前の様子も伝えられた。佐藤颯大主将(2年)は「今、当たり前に野球をできていることは幸せ。今年の春は東北大会に出場し、夏は甲子園を目指したい」と、被災したグラウンドから夢を追うことを誓った。【高橋昌江】

走塁練習を終えた仙台一ナインがマウンドからセカンドの守備位置付近まで整列した。午後2時46分。レフト方向を向き、1分間の黙祷を捧げた。仙台一の校舎は仙台駅から直線で約1.5キロ、海から9キロ以上も離れているため、被災したとの認識を持っている人は少ない。しかし、創立100周年記念で造られ、1994年から使用しているグラウンド(第二運動場)は学校から6キロほど離れた場所にある。そこから3キロ先には海がある。

2011年の3月11日は入試関連で全体練習がなく、自主練習の日だった。ほとんどの部員が午前中で練習を終え、帰途についていた。地震が発生した時、部室に残っていた2人はすぐさま学校に向かっており、グラウンドには誰もいない状態で津波が押し寄せてきた。グラウンドから3キロ先にあったのは800世帯、2200人が暮らしていた荒浜地区。人々の生活を守ってきた家、家財道具、車、ありとあらゆるものが「瓦礫」と化し、田園を抜けてきた。荒浜地区では190人以上が犠牲になった。

当時、監督だった建部淳副部長は震災から2日後、自転車でグラウンドに向かった。仙台市沿岸部を南北に走る東部道路のトンネルを抜けると、景色が一変。「言葉が出ませんでした。空は晴れているのに、色が違う。トンネルをくぐったら一面が茶色。家の土台もありました」。唖然、呆然。OBの建部副部長が3年生の時に完成したグラウンドは変わり果てた姿になっていた。外野のネットはどこかへ流され、敷地を囲うフェンスは防潮堤の役割を果たした東部道路から海に戻ろうとする水圧、瓦礫、草木で海側になぎ倒されていた。名取市閖上や亘理町荒浜から通っていた部員もおり、全員の無事を確認するまで1週間ほどかかった。

グラウンドが使えるようになるまで1年がかかった。当時、一塁手だった桜井隼汰さんは「仙台二高や仙台南高など多くの学校に建部先生が頭を下げてくれて、グラウンドを貸してもらいました」と感謝する。「節目の10年はグラウンドに来よう」と決めていた。現在、南三陸町の志津川中で社会科教諭をしている桜井さんはこの日、差し入れを持って駆けつけると現役部員たちと一緒に黙祷した。その後、2011年のことや後輩たちへの思いを伝えた。

2011年4月6日の仙台一高第二運動場【写真:高橋昌江】

昨夏の宮城県独自大会に背番号「12」でベンチ入りしていた大友剛さんが東大に現役合格

「私たちの代は3月11日を最後にここで野球ができませんでした。ここが復活したと聞いた時は嬉しかったです。時々、東部道路を車で通りますが、みんなが頑張っているところを見ると、『俺らの分も頑張れ』と思っています」

17年に赴任してきたOBの千葉厚監督は10年前、気仙沼で監督をしていた。地震発生時、部員は校外をランニングしていたが、気仙沼という土地柄、学校を離れる時は携帯電話を持たせていた。すぐに学校に戻るように連絡。津波が来る前に全員が戻ってきた。高台にあった校舎から海は見えず、「メキメキメキという音が聞こえ、土埃が立っていた」と振り返る。その後、気仙沼湾は火の海に包まれ、空が赤く染まった。しばらく経って、自身の入学と同時に完成した母校グラウンドの状況も確認した。

「あの状態から今のように使えるとは想像していませんでした。このグラウンドで野球ができない時期を過ごした卒業生もいる。この幸せが続くといいなと思いながら、手を合わせました」

仙台一は県内屈指の進学校。10日には昨夏の宮城県独自大会に背番号「12」でベンチ入りしていた大友剛さんが東大に現役合格を果たした。昨年、一浪してサクラを咲かせた鈴木健さん(東大硬式野球部)、現役合格を手にした関戸悠真さんに続いた。「二兎を追う」を掲げ、「東大がすべてではありませんが、難しいことに挑戦してほしい。学問にも野球にも全力を尽くしてほしいと思っています。学問と野球、どちらも100パーセントの文武両道です」と千葉監督。昨夏は仙台育英に屈したが、4強入り。昨秋は県8強入りしている。準々決勝で敗れたのが、19日開幕の選抜大会に出場する柴田だ。

柴田戦は1-2で終盤に入ったが、突き放されて1-6で敗戦。柴田は東北大会決勝まで進み、選抜切符をつかんだ。もしも、あの時……。「選抜大会が近づき、ますます、狙える位置にいたんだなという実感が出てきています」と佐藤颯大主将(2年)。その悔しさをバネに冬の練習に励んできた。昨年6月から元楽天の枡田慎太郎氏がコーチとして指導しており、その打撃論を伝えられている。佐藤主将は「今、当たり前に野球をできていることは幸せ。今年の春は東北大会に出場し、夏は甲子園を目指したい」と意気込む。

1923年夏の「第9回全国中等学校優勝野球大会」で県勢初の全国舞台に立った仙台一。1950年以来、甲子園出場がない古豪となっているが、千葉監督が「杜の王者奪還大作戦」と名付けたプロジェクトのもと、地域、保護者、スタッフも一枚岩になり、聖地への歩みを進める。「3・11」の津波でグラウンドが被災してから10年。しばらく遠ざかっていた硬式野球部からの東大合格者を3学年連続で輩出。甲子園の扉を開く日も、そう遠くないかもしれない。(高橋昌江 / Masae Takahashi)

© 株式会社Creative2