【藤田太陽連載コラム】もう一度あの時に戻れても僕は阪神に入ります

現在はロキテクノ富山での監督業も含め、ロキグループで勤務している

【藤田太陽「ライジング・サン」(最終回)】僕がドラフトされプロに入った時代から20年という月日が経過しました。長いようで短い。過ぎ去ってしまえば一瞬のようにも感じます。

今でも聞かれることがあります。逆指名で巨人に誘われたときの条件はすごかったのか?とか。当時の僕は子供でしたから、細かい条件などの部分で僕が聞いていないこともあったとは思います。

なので、聞くだけの世界でいえばジャイアンツはすごかったみたいです。2004年に大騒ぎとなった「栄養費」の問題などがあり、条件を秘密裏に積み上げるような世界は過去の遺物になったようですが。

ただ、言えるのは当時のドラフト前のころは、誘っていただいたどの球団も、当時の僕では食べられるはずのない焼き肉やおすしをごちそうしてくれました。

社会人時代の僕は社会保険などもろもろと3万円の寮費を引かれれば、手取り月給が7万8000円とかですよ。生活は本当に苦しかったです。

鉄鋼業界が不況でしたしね。川崎製鉄は僕のプロ入り後にはNKKと合併してJFEになりました。

当時は母親から「頑張れよ」とか書いてあって五百円玉が4枚貼りつけてある手紙を送ってもらってました。それが本当にありがたかった生活をしていました。地元が秋田なので実家から送ってもらった米だけは十分にありました。

そんな感覚だから契約金の金額とか、お金に見えなかったです。ただの数値。寮費にプラス5000円で一食につきおかずが1品プラスになるんですが、手が出なかったような僕でしたから。

ただ、世間で言われる契約金1億円プラス出来高5000万円という大金はすぐに消えるんですよ。ほぼ半分は税金として徴収されますしね。

お世話になった団体にウエアやバッグ一式。高校、社会人チームにマシンの寄贈など。お世話になった方々にお礼をして回っていると、すぐに消えていきます。

それはさておき、今になってどう思うか。当時、巨人ではなく阪神を選んだ事実について。究極の選択ですね。子供のころから巨人ファンでした。今も巨人ファンではあります。でも、阪神への愛着はすごくあります。巨人と阪神で優勝争いをしていてほしいですね。

もう一度、あの時に戻れるなら。それでも僕は阪神に入ります。阪神では僕は何もできなかったから。もう一度、やり直すなら。人生を巻き戻せるなら。阪神に行って、期待に応えられなかったファンの人たちの前でちゃんとした投球をしたい。

何もできず、何やってもバカにされるだけと思って僕の弱い心は折れていました。プロ3、4年目の25歳前後の大事な時に僕は野球に真摯に向き合えてなかった。そりゃ結果も出ないし、もったいなかったと思います。

井川慶がいて、藤川球児がいて同世代にすごいメンバーがいた。そんな中、僕は練習でできることが試合でできなかった。こんなはずじゃない。現実を受け止められなかった。苦しいところから逃げたかった。それが当時の僕の心の中身です。それなのに助言を素直に聞けない自分もいる…。でも、そんな僕だからこそ、今できることがあると思います。

現在、僕は社会人チームとなったロキテクノ富山・監督就任1年目です。自分の経験をすべて生かして選手たちに接したいと思います。大切な人生の若い大事な時期を預かるわけです。自分のように苦しむ選手を一人でも助けたい。

そして、今の場所での仕事をすべてやり終えたと思えた時が来て、ご縁があれば…。NPBの指導者としてお会いできるかもしれません。当欄、最後まで読んでいただいてありがとうございました。いつも、応援ありがとうございます。(終わり)

☆ふじた・たいよう 1979年11月1日、秋田県秋田市出身。秋田県立新屋高から川崎製鉄千葉を経て2000年ドラフト1位(逆指名)で阪神に入団。即戦力として期待を集めたが、右ヒジの故障に悩むなど在籍8年間で5勝。09年途中に西武にトレード移籍。10年には48試合で6勝3敗19ホールドと開花した。13年にヤクルトに移籍し同年限りで現役引退。20年12月8日付で社会人・ロキテクノ富山の監督に就任した。通算156試合、13勝14敗4セーブ、防御率4.07。

© 株式会社東京スポーツ新聞社